若き日の松田さんも、こうした統制経済化でできた「大阪自動車用品配給統制会社」に配属された。統制会社とは奇なモノだった。同業者とはいえ、昨日まで異なる組織でビジネスをしていたもの同士の寄り集まり。いわば呉越同舟の組織。伝票一枚切るにも3~4つのハンコが必要だったり、1台のクルマにスパークプラグの割り当ては「1本だけ」という実態を無視した妙な統制があったりで、満足な仕事ができなかったという。
シボレーとフォードはスパークプラグとコンタクトポイントがまったく同じ部品なので互換性があった。ところが、クルマのことなど何も知らない上層部が机の上で決めたため、価格差が生じ、松田さんたち現場のスタッフを混乱させたという。
この配給統制会社には、社員が全部で60名ほどいた。なかには統制違反を犯し逮捕された仲間もいたという。もちろん工場自体が軍需工場に塗り替わっていたので、満足に商品である部品が入手できるわけではなく、ないない尽くしの状態で時間が過ぎていったという。時には徴用といって国が国民を呼び出し強制的に仕事をさせ、大阪府下の軍需工場で慣れない工具を手にして、工員としてモノづくりに従事させられたという。
当時の日本はいわゆる「皆兵(かいへい)制度」を採っていた。健康な男子であれば誰しもが戦争に駆りだされた時代。昭和17年、18歳になった松田さんは、徴兵検査を受け、乙種合格、2年後の9月に香川県の善通寺にある部隊に配属された。その時代は自動車関連の仕事をしていた若者はごくわずか。ここでも現場を見ない上層部がいたようで、松田さんは≪自動車に関してはまんざらシロウトでもない≫という理由で、自動車連隊に配属されたという。
(写真は当時の木炭自動車。日野自動車の博物館「21世紀センター」で撮影)