旧日本陸軍の「自動車連隊」というのは輜重兵(しちょうへい)に属していた。輜重の“輜”とは衣類を載せる車、“重”とは荷を載せる車を指し、総じて輸送することを意味する。部隊の移動に際して糧食、被服、武器、弾薬などの軍需品を輸送する任務を専属とする兵科(職務区分)を輜重兵というのである。
ちなみに、昭和6年以降に陸軍大学校を卒業したものは1300名近くいるのだが、兵站(ロジスチックス:物流)を専門とする輜重科を専攻したのはわずか33名しかいなかった。当時の日本の兵隊と軍全体がいかに兵站を軽く見ていたか。太平洋戦争の陸軍死者数160万人のうち、実に70%が敵との戦闘による死ではなく、飢餓死だった。食べるものがなくて亡くなったのだ。
松田さんが属した自動車連隊が使った車両は、フォードのモデルTT(モデルTのホイールベースを伸ばし、足回りを固めたトラック)といすゞの6輪トラックだったという。「いすゞの6輪車は見掛け倒しで、とにかく重量が重くて力がなく、泥濘地にはまり込むと立ち往生して大変でした。そこでロープを車両にかけ、40~50名の兵隊の力で脱出することが多かった」という。当時「ガソリン(石油)は血の一滴に等しい」といわれた時代。松田さんによると、訓練時にはエンジンをかけることはまれだったという。ハンドルは古参兵が握るのだが、10数名の兵隊が車両を押したりしての訓練だったという。これもいささかこっけいな光景だ。自動車は中国戦線では敵に対する威嚇的存在だったのかもしれない。
(写真はT型フォードのシャシー)