夜間走行といっても敵にその存在を知られるのを怖れヘッドライトを消し、しかもフェンダーの先に歩兵を歩かせる。いわば水先案内人役をさせ、時速10キロ前後でゆるゆると進んだという。
闇夜など足元が不明になり、なかには谷に落ちたクルマもあった。助手席には必ず別の兵隊が座り、運転手が万が一のときには運転を替われる体制だった。ところが、上田さんがハンドルを握っていつものように夜道を走行中、いきなり機銃攻撃を受けたことが……。上田さんは運よく弾にはあたらなかったものの、不幸にも助手席に座っていた戦友が直撃弾を受け絶命したという。
自動車連隊は、ひとつの中隊約200名のなかに、30台ほどの車両を持っていて、1台の車両には運転手、助手、それに予備隊員として2~3名が付いていた。事故が起きたとき即交代できるようにしていたのである。それに、泥濘地に入り込んだとき、タイヤの下に莚(むしろ)を敷いたり、車両を押したりする役目が必要となる。「莚を敷くにはコツがあり、わしはけっこう上手やった」と上田さんは遠くを見る目でつぶやいた。
上田さんたち自動車連隊は、車両そのものの保守点検の係りでもあった。保守点検というと若いひとには意味不明かもしれないが、メンテナンスのことである。とくに当時の車両は現代のクルマのように無接点式の点火装置ではなく、コンタクトポイントをディストリビューター(配電盤)内に組み込んだもの。1980年ごろまでのクルマには見受けられたが、今では博物館でしか見られない。