「大阪に着いたら大阪城こそ残っていたものの一面焼け野原。でも、福島の天神様あたりは焼け残っていました。でも、大同自動車興業に戦前からの籍があったので社員として働くことになりました」
松田さんのケースと似ていて、当時の大同には上田さんを入れて5名ほどしか社員がいなかった。まだ戦地に足止めを喰らっている社員もいただろうし、復員の途中だったり、あるいは復員したものの田舎で養生していた社員もいた。不幸にして平和な日本を見ることなく戦死した社員もいたと思う。なにしろ終戦後、中国で命を落とした日本人は約25万人を数えたといわれるのだから。
でも、昭和23年ごろになると、福島界隈も戦前以上の活気を取り戻したという。
自動車部品商だけでなく、自動車ガラス専門店、ガスケット屋さん、エンジンバルブ屋さん、エンジンボーリング屋さん、マフラー専門店、ピストンリングとピストン専門店、バネ専門店、ゴムホース専門店、補機ベルト専門店、ボルトナット専門店など自動車の修理に関するありとあらゆるビジネスが展開されていたという。お客さんを紹介したり、逆にお客を紹介してもらったり、一大部品センター街が完成していたのである。わかりやすく言えば、当時としては東洋では最大級の自動車部品ショッピングモール、といっていいのではないだろうか。
(写真は当時の国鉄・福島駅)