大阪の福島界隈は、ロケーションも抜群によかった。環状線の内側に位置し、しかも大阪駅から当時の国電(現JR)で1つ目。地方からやってくるいわゆるバイヤーたちにも、きわめて交通の便の都合がよかったのである。遠く北陸や中国地方、あるいは九州、四国からはるばる大阪にやってくる地方の自動車部品商は、きまってバカでかいリュックサック持参でやってきた。帰りにはそのリュックに入りきれないほどの自動車部品を詰め込み地方に戻っていった。現在のような大手の自動車部品販売網も物流ネットワークもまったくなかった時代である。
現代のモノ余り社会からは、想像できないほどモノが不足していた時代。フォード、シボレーがメインで、しばらくすると日本車もぼちぼちつくられはじめ、おかげでトヨタのKB,KC,BMというトラック、乗用車などの部品が、あればあるだけ売れた時代だった。
舗装率が低く、道路状況がお世辞にもよくなかった時代。しかも当時のモノづくり技術や工作精度のレベルが高くないため、純正部品ですら壊れるのが早かった。走らなければクルマはただの鉄の塊だが、稼動すればお金を稼ぐトラックなどの輸送業の主役であったクルマは、壊れては修理して走り、また壊れては修理の繰り返し。現在のようなメンテナンスフリーを名乗る部品は皆無だった。大げさに言えば、「部品は壊れて当たり前の時代」だったのだ。