前年の昭和38年に大学を卒業してこの世界に飛び込んだ現会長の中嶋功氏によると・・・・当時の営業マンはみなスーパーカブで市内を飛び回っていたという。森之宮、あるいは尼崎あたりの顧客回りでもカブで出かけた。ところがそのころは市電が大阪市民の足。雨の日にうっかり市電のレールにのろうものなら、スリップして転倒。転倒にいたらずともリアタイヤがひょいと滑り、肝を冷やしたそうだ。バンパーやドアパネルなど大物の自動車部品の配達にはダットサントラックが活躍した。
昭和40年代、モータリゼーションの大きな波が押し寄せ、福島界隈の自動車部品卸業者は、景気が悪くなかったにもかかわらず、櫛の歯が抜けるようにポロリポロリと倒産していった。手形が切れなくなったり、あるいは関連会社の倒産のあおりを喰らい自滅する……どんぶり勘定の企業やもともと資金に余裕を持たずに始めた企業家が少なくなく、ちょっとした想定外の出来事で消滅する会社が珍しくなかった。
振り返ってみると、結果的には体力と経営戦略をしっかり持った企業が生き残った。
昭和50年代は自動車部品卸業の世界に変化が出てきた。モータリゼーションが進んだのである。どういうことかといえば・・・ごく普通の庶民にクルマがほぼゆきわたり、トラックの補修部品の時代から乗用車の補修部品へとシフトしたのである。現在の急成長する中国やインドでもそうだが、モータリゼーション初期で売れる自動車部品はたいてい決まっている。