むしろ終戦後のほうが別の意味で大変だったようだ。企業存続の危機に見舞われることになったからだ。
労働争議が勃発したこと、それに紡績業界が繊維価格の大暴落(1951年)で、不況となり、長年続いてきた鈴木式織機が売れなくなったのだ。時代が大きな曲がり角に来ていたのである。
いよいよ全社あげての他業種への大転換が求められたのだ。いっきに4輪車づくりの挑戦は、無謀である。当時、ホンダ、ヤマハ、トーハツ(東京発動機)など浜松や東京周辺ではバイクメーカーが雨後の筍(たけのこ)のように、生まれていた。スズキはこの大きな流れの中で、「自転車に取り付ける補助エンジン」づくりに乗り出すのである。「エンジンがあると楽だな~っ、操作が簡単でだれもが乗れるエンジン付き自転車をつくろう」という考えである。
こうして作り上げられたのが、1952年にデビューした「パワーフリー号」(写真)である。排気量36㏄の空冷式2ストローク単気筒エンジン。ペダルも楽に使えるフリー装置やダブル・スプロケット・ホイールなど独自の技術を盛り込んだエンジンで、価格も2万5000円と当時大卒の初任給が6500円の時代だ。