愛知県豊川市にスズキ初の自動車工場建設の一つのキッカケは、じつは2年前1959年9月の死者行方不明5000名余りを出した伊勢湾台風であった。
筆者もこの夏休み明けに起きた、未曾有の台風被害はよく覚えている。クルマで30分の海岸寄りの地域が高波と台風で、根こそぎ被害を受け、当時普及しはじめたTVのブラウン管が無残に泥をかぶっている写真が衝撃的だった。
この台風でスズキの工場も大打撃を受け、新工場の建設が持ち上がったのである。1961年1月に「建設準備員会」が発足した。
この委員長に任命されたのが当時30歳の鈴木修(現会長)だった。修は、下呂温泉で有名な岐阜県下呂市に生まれ中央大学法学部卒業後、銀行勤務を経て1958年、28歳のときスズキに入社。2代目社長の鈴木俊三氏の娘婿である。1978年から社長になるが、それまでの売り上げ3000億円台だったのを30年間で3兆円企業に育て上げた男である。
若き日の修は、悩んだすえ準備員会のメンバーを平均年齢27歳の係長以下9名に決め、急ピッチで生産設備と建設工事を同時並行で進めている。スタートから8か月後の8月工場が完成し、ボディの塗装から組み立てまで一貫連続工程で生産できる当時としては最新設備を誇る工場となった。
ちなみに1957年、道雄は娘婿である鈴木俊三(2代目社長)に社長職を譲り、相談役に就任する。