内山駒之助が頼った吉田真太郎は、江戸時代、横浜・関内近くの吉田新田を開拓した吉田勘兵衛の子孫ともいわれている。父親は横浜の大手の土建業者で成功を収めており、真太郎も東京の京橋に「双輪商会」という屋号で、自転車商を開いていた。
ここで“自転車”の登場だ。
いまでは想像もつかないが、当時の“自転車”という乗り物は、今でいえばスーパーカーのような憧れの存在。あるいは自分を変えられる魔法の乗り物だった?「当時の稲作農家の若者たちが、田んぼで自転車競技を行い、それは、それは熱いものだった」そんなエピソードを明治30年生まれのじいさんから、中学生時代の筆者は直接聞いたことがある。
そんな真太郎が26歳の年、1902年、自転車の仕入れと視察を兼ねてアメリカに出かけている。当時のアメリカは、フォードのT型(1908年)が登場する前で、電気自動車、蒸気自動車、それにガソリン自動車がいわば三つ巴のバトルを展開していた時代。
電動化しつつある100年後の自動車世界を知るわれわれにとって、興味深いことに、このとき電気自動車が1馬身先を抜けていた。ところが、1901年、テキサスに大油田が発見されたことがきっかけで、ガソリン車がシェアを握ることになるのです。このあたりはテキサスを舞台にしたジェームス・ディーンの映画「ジャイアンツ」を観るとリアルに理解できる。