ダイハツ(当時は発動機製造㈱)が4輪を試作するのは、創業から約30年もの時の流れを待った昭和12年(1936年)になる。ここで、歴史を振り返ってみたい。
実は発動機製造㈱が設立された明治40年(1907年)というのは、国産ガソリン自動車の「タクリー号」がデビューした記念すべき年なのだ。「タクリー号」とは、エンジンやトランスミッションは輸入品ではあったが、A型フォードをお手本にして、日本人の手でつくり上げられた木骨鉄板構造の乗用車である。10台ほどつくられたが、現存する車両はなく、トヨタ博物館に1/5スケールの模型があるのみ。“ガタクリ、ガタクリ”とばかり走ったところから「タクリー号」(写真:自動車工業振興会所有。「20世紀の国産車」より)といわれた。
迷惑を承知で当時の日本の草創期の自動車づくりについて、寄り道ついでに眺めることにする。モータリゼーション以前の人間味あふれたドラマが展開されていたのである。舞台は、大阪から東京に変わる。
ここでの主人公は、日本最初の自動車エンジニアといわれる内山駒之助である。
駒之助は、18歳で、機械技術を習得するためウラジオストックにわたり、2年間機械工場の徒弟として働くことで、自動車のエンジニアとしての知識と技術を身に付けたようだ。帰国した駒之助は、京橋にある逓信電気試験所に職を得て数年が過ぎたが、自動車への関心が強かった。そんな時、横浜生まれの吉田真太郎(1877~1931年)に出会うのである。
ダイハツのルーツである発動機製造㈱は、地元大阪の機械工学の学者たちの「熱意」から誕生したのである。明治40年、西暦1907年のことだ。
明治時代の後期、日本が欧米の先進国に学び、近代国家への道をひた走っていた時代だ。日清、日露の戦争に勝利して、時代の針が大きく回り、日本の産業革命期が佳境に入ろうとしていたころ。繊維工業から始まり、製鉄、石炭、電力などの基礎産業、造船、車両、機械などの製造工業が大きく伸びつつある、社会全体が大きく変わる時代でもあった。
当時、こうした産業の中心にいたのは、三井・住友・三菱・安田などの財閥系。
ところが、ダイハツのルーツは、こうした流れとは趣を異にし、機械工学の学者たちの熱意から始まっている。企業を起こして、利益を追求するというより、むしろ学究的な動機が先行したようだ。いわば純粋理工系のアウトサイダー的事業集団。何しろ「内燃機関の国産化」が主な設立趣旨だった。
設立の中心にいたのは、官立大阪高等工業学校(現・大阪大学工学部)の校長・安永義章(写真:1855~1918年)。安永は、肥後佐賀生まれ。明治16年陸軍省の技師になり、2年後の18年からドイツとフランスに兵器製造技術研究のために留学。「日本を工業立国にするには内燃機関の製造と普及が不可欠」という思いが高まっていた。そこで、同学校の機械科長の鶴見正四郎教授を仲間に引き入れ、当時の大阪在住の財界人に働きかけ、国産の内燃機関を開発する株式会社を設立したのである。
「発動機製造株式会社」である。このとき専務取締になったのが、大阪財界の有力者・岡實康である。事務所兼本社工場は、大阪駅の北約500メートル、現在の新梅田シティ。当時の徽章は、エンジンのフライホイールに中央部にアルファベットのE(エンジンの頭文字)を配したものだった。
人間が生まれ、世の中で初めて生きることを始める。それと同じように、企業にも必ず始まりがある。
ホンダは、終戦後自転車にエンジンを付けた、今でいう原チャリからスタートした。トヨタは、発明家・豊田佐吉の息子・豊田喜一郎(1894~1952年)が、画期的な自動織機の発明で得た莫大な資金を投じて、戦前キャデラックをお手本に乗用車生産から始めた。日産は、橋本増治郎(1875~1944年)という岡崎生まれのパイオニア・スピリッツが起こした快進社を引き継いだ日産コンツェルンの総帥・鮎川義介(1880~1967年)により自動車づくりを始めた。スズキは、もともと織機をつくる大工から這い上がった鈴木道雄(1887~1982年)が一代で築き上げた2輪&4輪メーカーである。
このように、たいていの自動車メーカーには、確固たる創業者が綺羅星のごとく存在している。
ところが、ことダイハツに限っては、この原則が当てはまらない。その企業のカラーやあるいは創業者魂のような空気感がダイハツの創業時を探ってみても匂ってこない。「この企業にこの人物あり!」という人物が見当たらない。ひとは、人間集団である企業を理解するうえで、往々にして知らず知らず企業を擬人化して、考えるものだ。社長のキャラクターや創業者の履歴などが、そのことを強化する。ダイハツという企業の始まりを調べると、良きにつけ悪しきにつけキャラが立っていないのは、どうもそこにあるようなのだ。創業期にグイグイ組織を引っ張るような存在がなかったようだ。ただ、目を凝らしてみると、ドグマのような熱き情熱は伝わる…。
そんなことで、今回から『ダイハツの知られざるヒストリー』をお届けする。
ワゴンRの予想を上回る成功で、ダイハツとの販売数に大差がつき始めた。あわてたダイハツは、2年後の1995年ムーブをデビューさせ、結果として日本の軽自動車市場にワゴンという新ジャンルを誕生させたのである。
実は、このクルマのパッケージング(全体像)は、インテリア・デザイン担当の若者が、一人で黙々と考えデザインスケッチをほとんどそのまま生かして結実させたものだ、といわれる。どことなく、温かみのあるたたずまいを感じるのは、そのためかもしれない。デビューから累計で約460万台以上だというから間違いなく、スズキの稼ぎ頭である。
ちなみに、ワゴンRは鈴木修の意見で「ジップ」という車名を用意していたところ、役員の一人に「よくないね」と茶々を入れられた。修の面白いところは、自分の美学にあまりこだわりを持たないこと。常に「目線を低くしておきたい」という気持ちを持ち続けている。何となく自分も「いま一つだ」と思っていたらしく、その意見に強く促され、「じゃあ、スズキはセダンもある。セダンもあるけどワゴンもあ~る。ということでワゴンRというのではどうだろう・・」ということで決まったという。そんなユーモアの源泉は鈴木修のどこから湧いてくるのか、不思議である。(写真はワゴンRプラス)
参考文献;「スズキ・ストローリー」(小関和夫)、「俺は、中小企業のおやじ」(鈴木修)、スズキ歴史館での資料ほか
●次回から『知られざるダイハツの歴史』を眺めてみます。ご期待ください。
「小さな車を作ることで常に西のダイハツと、いい意味のライバル関係。いつも鍔(つば)迫り合いを演じている」
スズキはそんな見方ができなくもない浜松発の自動車メーカーである。ところが、くらべるとスズキは先取り精神が一頭地を抜いていると思わせる時がある。最近なら2014年のハスラーの爆発的販売数だし、一昔前の1990年代なら1993年デビューのワゴンRがそのタイミングだった。
ワゴンR(写真)が初お目見えした1993年といえば、バブル崩壊で、先行きが不透明で、日本人が内向きになり、いささかしょぼくれていた時代である。じつは、この軽のワゴンというジャンルではホンダが1970年代にステップバンというクルマで先鞭を付けてはいたが、あまりにも早すぎた登場タイミングで、ごく一部の若者にしか理解されなかった。1990年代はじめアメリカのミニバンブームがあり、「かっこいいワンボックス」を求める市場が出来上がっていたのである。
貨物トラックから派生したキャリワゴンではユーザーの心が満たされていなかった。その意味ではワゴンRは当時の市場にド・ストライクだったのである。大人の男が道具としてのクルマとしてとらえた車だったのだ。
インドでは、生産の苦労をしただけあって、販売は極めて順調だった。普通の市民にとってこれまで高い関税(なんと170%!)に阻まれ、いいクルマに恵まれなかったのが、インド製の価格が安くて高品質なスズキブランドのクルマが販売されたのだから、インドの街中にスズキのSのマークのクルマが増えるのは時間の問題だった。
インドで作られたスズキ車も2016年3月から日本で販売されている。5ドアのハッチバック「バレーノ」(BALENOはイタリア語で“閃光”のことだという)がそれで、1リッター3気筒直噴ターボエンジンと1.2リッター直噴4気筒ガソリンエンジンの2本立て。車格はスイフトと同じだが、ボディサイズはスイフトよりも一回り大きい。その後、5ドア・クロスオーバーSUVの「イグニス」(エンジン1242㏄4気筒)も登場している。
いま(取材当時)では、インドの新車登録台数の約半分はスズキ車だという。インドは人口が約13億人。自動車の販売需要はここ15年で約4倍に増え、年間販売台数でいうと、中国の2800万台、アメリカの1780万台、日本の500万台、ドイツの370万台に次ぐ世界第5位の市場ということになる。
当初は、こうした文化の違いで軋轢(あつれき)が生じたようだ。
でも、現地の社長の賛同と、鈴木社長はじめスタッフの地道な説明とときには「工場経営はスズキ主導でやることになっている。それができなければインドにおさらばして、日本に帰る」と詰め寄った。このことで真剣みが伝わり、徐々にリーダー格の人が作業服を着たり、現場のラインに降りていったりと・・スズキ流の経営が浸透し始めた。
こうして1983年12月には工場のオープンを迎え、ガンジー首相が工場まで駆け付け、スタートを切った。インド事業で苦労したのはほかにもあった。現地部品の調達である。当時、日本の自動車部品メーカー(サプライヤー)は「インドで自動車が作れるわけがない」として一社としてインドに進出する企業はなかった。
そこで、最初はフル・ノックダウンといってほとんどの部品を日本から運び込み、インドで組み立てる方式だった。丸1年少したって生産数が5万台ラインになったころ、ようやく日本のサプライヤーがインドに見学に来ることで、インドでも十分仕事ができると判断、徐々にサプライヤーも進出してきた。
社員のだれに聞いても、カレーが好きな社員は少なくないが、インドなど行ったこともなければ、修自身もインドを訪れた経験がない。インドは、お釈迦様の誕生の地ぐらいの知識しかなく、まったくの未知の世界だった。
2週間後、インドから「基本合意書を結ぶから、訪印されたし」との連絡が入った。社長になって4年目、52歳の修は、インドに飛んだ。そのなかで、ガンジー首相にもあいさつに行き、インド政府が自動車製造に並々ならぬ意欲があることを感じた。
ニューデリーの近くのガルガオン(地図参照)というところに作りかけの工場があり、そこを修復して新工場とした。インド人の社長から「日本的な経営で構わない。全面的に任せます」というお墨付きをもらった。地元のインド人を雇い、経営にあたろうとすると数々の難問が怒涛のように襲いかかった。
無断で工場内に幹部用の個室を作ったり、カースト制度のため社員食堂でカーストの異なるほかのスタッフたちと食事をとることを嫌がったり…「掃除はやらない。それはカーストの低い人たちの仕事だから…」と主張するものが出てきたり……同じ理由で「作業服も着ない!」とする社員もなかにはいた。当時のスズキの担当者から言わせると、「カオスの世界」に投げ込まれた気分だったようだ。
スズキの会長である鈴木修氏によると、インドでの自動車ビジネスが始まったのは偶然の産物だった。
当時インドには、国民車構想というのがあり、インド政府直々に世界で自動車づくりのパートナーを求めていた。
スズキがこれに前向きな返事を送ったことから、インドから調査団がやってきた。ひいては日本の自動車メーカーを見学に来たのである。1982年3月のことだ。
ところが、ちょうどそのころ修氏はビッグスリーの一角であるGMとの交渉で北米に向かわなくてはいけなかった。とりあえず表敬訪問ということで、逗留する都内のホテルに向かい30分のつもりで調査団に合うことにした。この会談は、想定以上に話が弾み3時間の懇談となったという。北米から帰国後、修はインドの調査団は既に帰国したと思っていたら、修を待っているという。
当時の日本の自動車メーカーのトップは、北米自動車摩擦の対応に追われ、インドへの目線を欠いていたようだ。ひとり修だけが、結果として、インドへの何か熱いものを感じたのかもしれない。ビジネスとは単に銭儲けではないということだ。
●写真はインドでも生産された2代目カルタス1989年式。
じつはスズキの海外展開は、北米よりも先にインドだった。インドでのビジネスの始まりは、1982年のことだ。
鈴木修社長(写真)は、「とにかく、どんな小さな市場でもいいからナンバー1になって、社員に誇りを持たせたい」というのがかねてからの信条だった。
当時スズキは排ガス規制をめぐる技術的な失敗から屋台骨を揺るがす危機に陥ったが、何とかアルトの大成功で持ち直したところ。そんな時、未知な市場であるインドに挑戦したのは、修氏の先見性、それに指導力と決断が大きくものを言ったといえる。
いまでこそインドは資本家たちには、地球上最後の巨大市場として大注目されているが、30年以上も前のインドに自動車産業が確立されるとは、誰しもが想像できなかった。そのため世界の大手の自動車メーカーは、どこも手を付けなかったのだ。
だからして、当たり前のことだが、そうやすやすとインドへの足掛かりを確立できたわけではなかった。
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