喜一郎は、こうした「アツタ号」の動向を横目で冷静に観察し、頭をフル回転させながら成功の道筋を描いていたに違いない。アツタ号デビューから1年後、喜一郎は、技術面でのめどが一応立ったとして、妹の婿である社長の豊田利三郎を説得し1933年(昭和8年)9月に「豊田自動織機製作所」のなかに「自動車部」を設置した。
壮大な成功を目指し、そのための下準備のはじめの一歩を踏み出したのだ。当面は、外国車の長所を学び、日本の国情にあったクルマづくりの開発をスタートさせたのである。
翌1934年(昭和9年)、刈谷に試作工場と材料試験室(写真)をつくった。材料試験室は、鉄の引っ張り、曲げ、圧縮といった物理的特性を試験する試験室、分析室、写真現像、図書室などを備えた830㎡。そこで、鉄鋼材をはじめ、クルマを構成する各種材料の試験、研究がおこなわれ、外国車の自動車用材料についても分析がおこなわれた。
いっけん回り道に思える基礎研究をなぜおこなったのか? 喜一郎のDNAには、佐吉譲りのものごとを突き詰めて考えるという深い好奇心もあるが、当時自動車づくりに適した高品質な鋼材を安定して提供する企業が国内になかったからだ。そのため、自前の研究所をつくるしかなかった。欧米の技術を丸呑みしながら、モノづくりをおこなおうという鮎川義介(1880~1967年)の日産との大きな違いである。
じつは、こうした基礎研究や、自動車づくりの基本を大切にしている、格好の“証拠物件”ともいうべき資料を筆者は、ひそかに所有している。
1970~1980年代に編集され、主だった社員に配布した様々な技術資料である。トヨタが創業以来約半世紀にわたり蓄積した知見やノウハウ、技術などを分野別に文字として残している。期せずしてこれらは、後輩への伝達事項となっている。たとえば「材料の知識」とか「自動車の知識」「自動車用語辞典」「生産用語辞典」「生産の知識」「自動車と情報処理」「エレクトロニクス用語辞典」「メカトロニクスの知識」などだ。もちろんこれらは非売品。部署ごとの専門技術者が、執筆しまとめた平均600ページにおよぶ大部で、やさしい文章で書かれている。「技術を共有化しなくてはいいクルマはつくれない!」そんなメッセージをくみ取れる、冷静かつ熱い気持ちで書かれた技術書である。欧米の自動車メーカーのことは知らないが、少なくともこうした高い品質の基礎技術書を自社でつくり上げているのは、トヨタ自動車以外知らない。
開発スタッフの大半は、エンジンの知識がほとんどなかった。
そこで、クルマのエンジンをじかに触れさせる目的で1933年製のGMシボレーの6気筒ガソリンエンジンを分解調査しはじめる。分解し、部品をスケッチし、その材質を調べたりしながら、自動車の基本を徐々に学んでいった。
この当時、外部からもスタッフを招聘している。いわゆる“中京デトロイト化計画”で、「アツタ号」のエンジンを設計した菅隆俊(1886~1961年:のち拳母工場の建設、豊田工機の設立に活躍)や、「オートモ号」の設計を手がけた池永羆(いけなが・ひぐま)。それに3輪自動車の経験を持つ伊藤省吾や、自動車部品製造業界に詳しい元白揚社の大野修司などである。
ちなみに、中京デトロイト化計画は後世のマスコミがいささか気負った表現だとおもう。当時の大同メタル工業の社長川越庸一(1893~1983年)が中心となった壮大なプランだったことは確かだ。川越は、福岡の修猷館を経て熊本工業高校機械工学科(現熊本大学理工学部)を卒業後、1922年にアメリカにわたりハドソンやダッチの工場を見聞、働きながら自動車の研究をした人物。帰国後1929年にGMの代理店の昭和自動車㈱のサービス部長をするなかで、中京地区で自動車づくりの機運を盛り上げようとした。
川越は、名古屋商工会議所の主要メンバーで愛知時計電機の青木鎌太郎(1874~1932年)に声をかけ、さらに名古屋市長や愛知県知事に協力を依頼、さらには豊田自動織機や大隅鉄工所、日本車両といった名古屋の地元有力企業5社が、中京地区をアメリカのデトロイトのようなクルマ生産拠点を目指した。資本金1000万円を軸にした企業体での試みで、約2年がかりで「アツタ号」を完成させた。AA型乗用車が世に出る4年前の1932年(昭和7年)のことだ。
これは、アメリカのナッシュをお手本に数台作り上げられた。もちろん量産にはほど遠い、手づくり乗用車だ。
当時難所とされていた神戸の六甲ドライブもこなすほどの性能だったという。このエンジンを流用した乗り合いバス「キソコーチ号」も数台作られ、名古屋市バスとして走らせている。水冷8気筒、排気量3.94リッター、85馬力の大型エンジン搭載の高級車にちかい。
「アツタ号」は価格6500円で売り出された。昭和7年ごろ米1俵(60kg)が8円20銭だったので、現在米1俵が約1万5000円とすると6500円は、いまの貨幣価値でいえば約1200万円。スーパーカーの値段だ。ちなみにフォードなら3000円(現在の貨幣価値で約500万円)で手に入った時代。2倍以上の価格ではとてもじゃないが売れない。よほどの富裕層でないと買えない。とてもじゃないが、庶民にはクルマを持つこと自体が、夢のまた夢というか、高根の花。
しかも「アツタ号」はコスト自体が実は1台あたり9200円もかかったという。完全なコスト割れ。作れば作るほど損をする! くわえて、そこへ不況(昭和4年アメリカから始まった世界恐慌)が襲ったことで、デトロイト化計画はあえなく頓挫した。振り返ると中京デトロイト化計画は、絵に描いた餅でしかなかった。
豊田喜一郎たちがエンジンの研究を続けているあいだに、政府主導で新しい自動車をめぐる動きが起きていた。
政府とは具体的には、管轄の商工省(現在の経済産業省の前身)である。商工業の奨励と統制をおこなうことができる国家機関である。
大正初めから始まったアメリカ車の流入によって、壊滅的打撃を受けた日本の自動車メーカー。これを立て直すため、この組織がいわば司令塔になり、自動車の国産化の道筋を作ろうとしたのだ。
そこには軍事上の自動車の必要性もあった。当初はフォードとGMの進出を歓迎していたのだが、両社の本格的な組み立て工場が稼働し始めると、輸入が急増し国際収支が悪化し始めたことで、輸入車を締め出す策に転じたのだ。もう一つは、ひそかに仮想敵国と定めた米国から戦力となる自動車を購入する矛盾に気付いたのである。
昭和6年5月、商工省内に、「国産自動車工業確立調査委員会」を置き、具体的な方策をスタートさせている。委員会のメンバーは、陸軍省、商工省、鉄道省のほか、民間から石川島自動車製作所、東京瓦斯電気工業、ダット自動車製造の国産3社。この年の9月、標準型式自動車の設計をおこない、自動車の要素を10個ほどに分けて、試作に入った。石川島がエンジン、東京瓦斯電気がフロントアクスル、リアアクスル、ブレーキ、ダットがトランスミッション、クラッチ、プロペラシャフト、鉄道省がフレームとステアリング、スプリングなどを担当した。
この委員会の臨時委員のなかに、喜一郎が大学時代論文を一緒にまとめた隈部一雄(1897~1971年:東大教授、のちトヨタの副社長を歴任)、小林秀雄、坂薫、高校・大学を共に過ごした伊藤省吾がいた。彼らから喜一郎は、さまざまな情報を知り、またクルマをめぐるモノづくりのアドバイスを受けたという。
商工省が音頭取りした「標準型自動車」は、昭和7年3月に試作が完成した。これはフォードとシボレーなどのクルマとの競合を避け、それより一回り大きい1.5~2トン積みのトラックとバスで、年間1000台の量産を計画した。しかも、3つの自動車会社は、量産効果を高め、コストを下げるために合併している。こうして生まれたのが、「いすゞ」であり、「ちよだ」「スミダ」である。
父・佐吉が織機研究に向き合い子供の頃から現場を見て育った喜一郎。大正6年東京帝大の工学部を卒業し、機械工学を専攻している。内燃機関に関心が強く、大学時代から将来は自動車づくりに取り組みたい意思があった。そして、大正10年(1922年)、佐吉の長女愛子の連れ合いである義兄の豊田利三郎(1884~1952年)夫婦の海外紡織事業視察旅行に同行する。約10か月という長期にわたる欧米旅行で、海外の工業力を目の当たりにする。
そこから約10年後の昭和4年(1929年)から翌年3月まで、喜一郎はふたたび横浜港からアメリカにわたり、自動車工場を見て回り、おおいに刺激を受けている。といっても、表向きは、自動織機に関する仕事での洋行だったが、ひとり喜一郎は、部下に仕事を任せ、自分はフォード社をはじめとする自動車工場や、部品工場を回っていたのである。このころのアメリカの自動車産業は、巨大な市場を背景に数多くのメーカーはビッグ3に集約されつつあり、全体的には日の出の勢いの時期だった。まさに喜一郎の思い描く先進的な自動車工場が目の前で展開されていたのである。
喜一郎は、1930年(昭和5年)2月、2回目の欧米視察から戻ると、自動車に取り組む覚悟を固めたかのように織機工場の片隅に研究所を設け、技術者を集めて小型エンジンの研究をスタートさせた。手始めに自転車の補助エンジンであるスミス・モーター(写真)と呼ばれる小さなガソリンエンジンを少人数で試作・研究を始めたのである。このころ、喜一郎は大学の同窓であった内燃機関の研究家であり、東大教授となる隈部一雄(1897~1971年)をはじめ、友人のもとに通い、国産自動車の確立をめぐる政府や業界の動向を的確に把握し、同時に多くの事柄を学んでいる。
一方、新しい工作機械や設備を購入し、工場に据え付けていった。導入された機械設備は、従来の紡織機械の世界のものではなく、より精密で高価なものだったが、喜一郎は将来を見据えて投資は惜しまなかったという。
ところが、自動車についてはまったくの未経験集団同然である。トライ&エラーの繰り返し。当初は特殊鋼という材料の存在すら知らなかった。分解した外国製エンジンをそのまま模倣することさえ容易ではなかった。作っては壊し、作っては壊しの繰り返しの悪戦苦闘の日々だった。文字通り暗中模索のなかでのモノづくりへの挑戦である。
生まれ落ちた国のために仕事をして、自国を外国に誇示するべし! という国威掲揚を教育のど真ん中に置いていた。ココロザシのある人物は、“このままでは日本がだめになる!” そんな危機意識が募ったのは当たり前ともいえた。
ちなみに、喜一郎は、父親の豊田佐吉からこんな薫陶を受けていたという。「わしは織機を作ってお国に尽くした。お前は自動車をやれ」。このまま手をこまねいていると、アメ車が日本の市場を埋め尽くしてしまう、という危機感は、当時の日本の起業家や資本家の気持ちとしては共通していた。
だが、本格的な量産を目指す自動車産業に挑戦するとなると、リスクが大きすぎる。広大な工場施設や大量の優秀な労働力、機械設備、高い技術力、量産力、サービス体制、部品の購買力など数え上げたらきりがないほどの総合力が要求される。これらをすでに世界的企業となりつつあるフォード、GM相手にするわけだから、いわゆるクレバーな既存の資本家や起業家(具体的には三井、住友、三菱、渋沢、安田、大倉などの財閥)の大部分はやりがいのある事業だとは理解してはいるが、リスクの高いビジネスとして自動車産業にそっぽを向くか、二の足を踏んでいた状態だった。
こうしたリスキーな事業に果敢に飛び込んでいったのが、トヨタと日産だったというわけだ。2社ともに新興勢力ともいえた。いまの言葉でいえばスタートアップ企業、あるいはベンチャー企業。
ただ、このころの流れを注意深く調べると、トヨタも、正面切っての自動車製造に着手したというわけではない。むしろ日産の鮎川義介の方は、ワンマン企業だったこともあり、果敢に挑戦したといえる。
この物語の主人公の豊田喜一郎は、豊田佐吉の息子とはいえ、その当時豊田自動織機製作所の常務に過ぎなかったからだ。喜一郎の独断で、「はいこれからうちの会社でクルマを作ろうと思います!」なんて宣言までには時間が必要だった。社長は、佐吉の長女の婿養子である豊田利三郎(1884~1952年)。喜一郎から見ると、10歳上の義兄である。喜一郎は、自分の夢を実現するには、外堀と内堀を少しずつ埋めていくしかなかった。
(写真は1920年ごろの豊田喜一郎)
1920年代、大正末期の日本のクルマ事情は、とても話にならないほどのプアな世界だった。東京や大阪の人々が集まる都会ですら、ほとんどクルマの姿を見ることがなかった。
だから、ファミリーカーの普及など、夢のまた夢、普通の庶民は夢にも、そうしたファミリリーカーで余暇を過ごすなど想像すらできなかった、そんな時代。1923年に起きた関東大震災後にフォードのシャシーを使ったわずか9人乗りの小型バス(円太郎バス)が東京市内(当時は市だった)を走ることで、生まれて初めて自動車と接する経験を持った程度。自家用車を乗り回すなどごくごく当時の指折り数える富裕層だけの特権でしかなかった。
だが、アメリカ資本(フォードとGM)はまったく異なる見方をした。「日本は、近い将来クルマ社会にできる市場だ。背後にあるそれ以上大きな市場の中国市場への足掛かりにもなるので、ビッグなビジネスチャンスだ」ストレートにそう考えたかどうかは知らないが、当たらずとも遠からずだと思う。
1925年には、フォードは横浜でノックダウン工場を作り、GMは2年後の1927年大阪の大正区に同じくノックダウン工場を設立、フォード、GMの2社合わせると、年間2万台近い輸入車が日本の市場にどっと登場し、たちまち日本の道路(といっても京浜と阪神の都市部だが)は、フォードとシボレーで染め上がった感じ。
この堰を切ったようなアメリカ車の活躍で、いまだ試作の域を出ていなかった日本国内の自動車メーカーは、価格的にも性能的にもとても太刀打ちできなかった。そこに第1次世界大戦後の大不況がかぶさり、あえなく倒産に追い込まれていった。ダット号の快進社もしかり、オートモ号の白楊社もしかり。昭和元年、つまり西暦1925年の時点で、命脈をたもっていたのは、3社だけだった。
のちのいすゞや日野自動車の前身となる東京石川島造船、東京瓦斯電気工業、それにクボタの流れをくむ大阪のダット自動車製造、この3社が、軍用自動車補助法という非常時には軍用車とするという軍との約束事で補助を受けることでかろうじて生き延びたのだ。ちなみに、トヨダAAが登場する7年前にあたる昭和4年(1929年)のデータを調べると、全国の自動車の総数は約8万台だった。この年登録された新車3万4793台で、うち3万台近くが日本で組み立てられたアメリカ車だった。残りの5000台が輸入完成車(アメリカ車が中心)。国産のジャパニーズカーはわずか437台だったのだ。つまり1.2%に過ぎなかった。無視されても可笑しくない存在。愛国主義者ならずとも、これを聞いて、少なからず内なるナショナリズムが刺激される!?
(写真は、日本初のガソリン自動車「タクリー号」の模型。有栖宮親王殿下の命で、A型フォードをお手本に東京の実業家吉田眞太郎と技師の内山駒之助が明治40年につくった。エンジンは排気量1837㏄水冷水平対向2気筒SV式)
オンボロとはいえ、いまのところ唯一無二の生き残った「トヨダAA型」が発見され、オランダの博物館に収まった。
豊田章男社長は、ハーグの博物館にいち早く出向き、草創期のトヨタが苦労の末作り上げたクルマと対面した。
章男氏は、トヨダ自動車創業者・豊田喜一郎(1894~1952年)の孫にあたる。このときの章男氏のコメントは入手してはいないが、85年の時空を超えて伝わる何かがあったのは間違いない。トヨタのアイデンティティ、つまりトヨタが自らの存在を指し示すにふさわしい「トヨダAA型」とは、なんだったのか? このクルマを作るプロセスに何があったのか? 当時の人々はどんな気持ちでこのクルマに向き合っていたのか? わずか1404台しか発売されなかったこのセダンとこのクルマの中心にいた豊田喜一郎の周辺を追いかける。
「トヨダAA型」が世に送り出された1930年代の世界とはどんなだったのかをまず眺めてみよう。
欧米ではひとことでいうとかなりモータリゼーションが深まっていった時代だった。アメリカでは、フォードのT型が1500万台売り切ったのが1927年。一時はアメリカの道路には黒塗りのフォードT型(写真)があふれかえった。その後アルフレッド・スローンの手腕でGMが巻き返す。フルラインアップ戦略と買い替え需要を掘り起こす数年で手持ちのクルマが古く感じさせる陳腐化政策で、1927年にはフォードを生産台数で抜き去った。1925年に発足したばかりのクライスラー社も、斬新なデソートなどの中型車を武器にフォードT型からの買い替え需要ユーザーに食い込んでいった。
つまりこのころのアメリカ自動車市場は、80数社の乱立時代からビッグ3に絞り込まれつつある時代。モータリゼーションの成熟期を迎えつつあった。ファミリーカーの普及と一家に2台のクルマ所有、それに女性のドライバーの増加が後押しした。
ヨーロッパでも、クルマ市場は活況を呈し始めていた。イギリスのモーリスやオースチン、フランスのシトロエン、プジョー、ルノーそれにアメリカ資本のイギリスフォード、ドイツフォードが設立され、小型車の普及が進んでいる。GMは、英国のボクスホールを買収し、ドイツのオペルも買収している。インフラとしては、1933年ドイツの首相となったヒトラーの命に沿って最盛期12万人を動員してアウトバーンの建設も始めている。
筆者は、長いあいだこう考えていた。敗戦からまるまる10年を迎える昭和30年の1月にデビューさせたRSクラウン(初代クラウン)は、戦後トヨタが造り上げた初めての純国産車。エンジンもボディも、オリジナルで、誇るべき工業製品である。興味深いことに、私が3年間通った四日市にある工業高校の卒業アルバムの冒頭(写真)に、玄関前に誇らしく鎮座する初代クラウンが写っている。月日を物語るくすんだ写真ではあるが、純国産車の誕生は、当時の日本のモノづくり関係者には、それほどの誇りだったのだ。初代クラウンはその後のトヨタの躍進のシンボルとなった。
ところがそのRSクラウンからさかのぼること19年前、昭和11年に誕生したトヨダAA型は、どうだろう。
ストレートな言葉を使えば、エンジンはシボレーの焼き写しだし、ボディは当時最先端をいっていた流線型デザインのクライスラーのデソート・エアフローである。第3者の印象としては、とても自慢すべき作品とはいいがたい。オリジナルの車両を作る前のスタディ・カーと言えなくもない。とてもじゃないが、大きく胸を張って誇りに思うクルマではないのではなかろうか? 筆者がトヨタの役員なら、大げさかもしれないが恥ずべき車としてバックヤードの奥にしまっておくだろう。
ところが、トヨタ博物館に足を踏み入れた読者は、すでにしてエントランスホールで、まず最初にご対面するのが、このトヨダAA型なのである。黒塗りのいかにもモッタイぶった感じのセダンである。せっかく足を運んだ明るい気持ちに水を差しかねない(ともいえなくもない)。
この思考、ゲスの勘繰りというものだった。真摯にモノづくりに向き合う当時の人々の気持ちを考えると、短兵急で杜撰な考え方だ。
当時の日本人の気持ちを手繰り寄せてみよう。長考するうちに、暗闇のなかで手探りをしながら高い技術力と大きな資本を投じる自動車メーカーを作り上げる、何とか世界に認められる工業製品を作り上げたい、当時のモノづくりに携わる人たちの息遣いが伝わってくる。モノ真似をした恥ずかしさなど、内向きの感覚はさっさと消し去る。むしろ高貴で愚直なモノづくり世界がむくむくと立ち上がってくる。
ここまで考えが及ぶと、はじめてトヨダAA型が大きな意味を持っていることが理解できる。
数年前のこと、突然ロシアのウラジオストックの農家の納屋で発見された1台のボロボロになったクルマが、大きな話題を呼んだ。塗装がはがれ、ドアがゆがみ、雑な修理のあとも見られ、室内もいわば目をそむけたくなるほど傷んでいる。
そんな、ほとんど価値のないように思われるオンボロ状態のクルマ。でも、そのクルマは、ボロボロの状態でなぜかオランダのハーグにあるローマン・ミュージアムという博物館に収まっている。ちなみにハーグといえば、アムステルダム、ロッテルダムに次いでオランダの第3の都市である。人口約50万人弱の八王子ほどの地方都市だ。
この無残にくたびれたクルマ(写真)。よく見ると、フロントグリルは付いておらず、バンパーも消えている。ヘッドライトやホイールはオリジナル部品ではない。ハンドル位置も右ハンドルから左ハンドルに改造を受けている。塗膜が剥がれ落ち、室内もいかにも厳しい風月にさらされた感じ。まるで水害で長らく水に漬かり、数か月後に水のなかから姿を見せた、そんな無残なクルマだが、実は大きな価値があるのだ。
このクルマ、トヨタが長いあいだ、探し求めていた「トヨダAA型(濁音に注意!)」だったのだ。日本が泥沼の戦争に突き進んでいった分岐点ともいわれる若手将校らによるクーデータ未遂事件・二二六事件。まさにその大事件が起きた同じ年の1936年(昭和11年)に発売し、太平洋戦争が始まる1941年の末頃生産中止を余儀なくされたクルマなのだ。
延べ15年間のあいだに累計1404台を世に送り出したトヨタ初の純国産乗用車である。
じつはこのクルマ、トヨタ博物館の1階のエレベーターの乗り口に収まり、博物館を訪れる人の目には否応なくイの一番に飛び込んでくる同型のクルマである。実はトヨタ博物館にある黒塗りの高級セダン「トヨダAA型」は、まったくの復元車なのである。1989年(平成元年)トヨタ博物館のオープンにあわせ、数億円をかけて丸一年を費やし2台復元したものだ(あとの一台は、名古屋市西区にある「産業技術記念館」に展示してある)。
だから、トヨタの関係者にとって「トヨダAA型」というのは、レゾンデートル(存在理由)を語るうえで欠かせないクルマなのである。その意味で、無残な姿だったとしても、オリジナルとトヨダAAがこの世に存在していたという事実は、僥倖だったのである。あれほど探し回ってなかったクルマだけに、原形をとどめないながらも、ロシアで現車が見つかったことは“奇跡”だといえる。
これから、このトヨダAAをめぐる物語を見ていくことにする。
その数なんと20万台を超え、自動車として修理され復旧したのは75~80%だった。船が直接接岸でき、近くに工場があるということで、横須賀市追浜にある元海軍工廠を活用した。この業務は、約10年間にわたりおこなわれ、昭和33年には、その工場跡地に日産追浜工場がつくられ、ブルーバードなどが生産されることになる。これは昭和37年だからはるか先の話だ。近くに野島公園があり、そこからテストコースが見渡せるところだ。
ゴーハムは、この富士自動車の副社長をしながら、実は、「ゴーハム・エンジニアリング社」を設立し、さまざまなモノづくり工場のコンサルタント事業を展開している。その数なんと30社で、トヨタ自動車、キヤノン、ピストンのアート金属、バッテリーの湯浅電池、矢崎電線、理研柏崎工場などそうそうたる企業ばかり。ゴーハムの高い技術力もさることながら、欲得抜きの真摯な生き方に共鳴して一流企業の経営者が、ゴーハムのところに集った、という側面も見逃せない。
だが、別れは急に訪れた。昭和24年、10月24日腎臓を患い、亡くなるのである。61年の波乱の人生だった。その半生は、日本の自動車産業の礎を築いたといっても過言ではない。明治期の「お雇い外国人」は、2~3年、長くて5年ほどで帰国するケースが多かった。いわばパートタイムジョブだったが、ゴーハムは日本を愛し、日本人を愛し、日本人からも慕われ、愛され、日本の自動車産業の礎を築いたひとりとなり、そして日本の土になった。自動車殿堂入りしてもおかしくない存在である。(写真は、桂木洋二著『日本人になったアメリカ人技師』から)
参考文献/橋詰紳也『人生は博覧会・日本ライカイ屋列伝』(晶文社)、桂木洋二『日本人になったアメリカ人技師』(グランプリ出版)、『日本自動車史年表』(グランプリ出版)、『21世紀への道・日産自動車50年史』(日産自動車)、『国産車100年の軌跡』(三栄書房)、「日本史年表」(岩波書店)、工藤美恵子『絢爛たる醜聞 岸信介伝』(幻冬舎文庫)、広田民郎『クルマの歴史を創った27人』(山海堂)
◎次回からは、トヨタの戦前の物語を描く『トヨタがトヨダであった時代』(仮)をお届けします。
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