日本に着いたゴーハムは、当初計画した通りまず航空ショーを東京の芝浦の埋め立て地でおこなった。
技量をアピールするためだ。もう一つは東京・大阪間の郵便飛行にも挑戦している。こうした試み、というかパフォーマンスは、あまりビジネスに結びつかなかった。この2つともどうも手ごたえがなく、空振りに終わったのだ。
そのころ日本の航空界は、のち中島飛行機の総帥となる中島知久平が軍部と結びつき、積極果敢に航空機産業を軌道に乗せようと励んでいたからだ。いきなりアメリカからやってきたエンジニアが食い込むスキはなかった。ゴーハムの持つ“技術の駒”は、即座には受け入れられなかった。
ところが面白いことに、SNSもなかった時代ではあったが、高い技術力を持つゴーハムのうわさは口コミで広がっていった。
時代はちょうど第1次世界大戦が、ようやく終息したところだった。思わぬところから、ゴーハムの技術力に注目する人がいた。
大戦による好景気で、モノを運ぶトラックの需要が日本で起き始めていた。川崎にある企業が、ゴーハムにトラックの生産を持ち掛けてきたのだ。
好奇心旺盛なゴーハムはそのオファーに応えようとした。当時堅牢なクルマづくりで評判のパッカードに目を付けた。パッカードを一つのお手本として新たにトラックを開発しようと動き始めた。こうした研究のなかで、片手間にゴーハムが造り上げた1台のクルマがあった。
「クシ・カー号」である。クシとは興行師の櫛引のことで、櫛引専用の3輪車だ。ハーレーダビッドソンのエンジンや部品を流用して通常の仕事の合間に作り上げたスペシャルな3輪車(写真)である。実は1901年(明治34年)ニューヨーク州バッファローで開催されたパン・アメリカン博覧会で、路面電車との事故に遭遇し、櫛引弓人は右足を失っていた。
ゴーハムの持つ“技術の駒”は、極東の島国・日本で、思わぬ方向に動き始めたのである・・・・。
浜松での興行では、まだ少年だった本田宗一郎が三角乗りの自転車でおよそ15キロ離れた会場に駆け付け、会場の外の木にのぼり、かたずをのんで見守ったというエピソードが残っている。こうした日本でのアート・スミスの曲芸飛行のマネージメントをしたのが櫛引弓人だった。
アメリカに帰国したアート・スミスと櫛引から、日本での曲芸飛行興業の大成功ぶりを聞いたゴーハムは、飛行機に対する熱い思いが日本人の間に広がっていることが伝わった。伝わると同時に冷静にいられなくなった。
13歳のときに父親に連れられ日本の各地を旅した時の素晴らしい経験がよみがえってきたからだ。アメリカでの航空機事業に挫折したゴーハムは、航空機がいまだ未開地である日本でなら、自分のチカラを大いに試すことができる、としたら、それは日本においてない。そんなふうに30歳になったゴーハムは考えたに違いない。
このときゴーハムは、すでに2人の息子の父親でもあった。13歳のとき強く印象に残った日本という新しい地で、自分の力を思いっきり発揮することができる。新天地は日本をおいてほかにない。そう考えたゴーハムは、家族そろって日本にやってきたのである。かなりの強い決意である。
航空ショーを想定して、パイロットを連れ、飛行機2機、ゴーハムが開発した航空機エンジン3基、それに工具や治具などをたずさえた、ということを知るとその決意のほどが理解できる。新天地を求め、日本に移住したのである。
それにしても、1918年といえば大正7年、明治維新から半世紀たって、ようやく近代国家としての体裁が整い始めていたとはいえ、欧米から見れば因習社会のなかに日本人の大半は暮らしていた。逆の立場で、可能性を信じて新大陸アメリカに移住する日本人なら、理解できるかもしれないが。
アメリカ人がいまだ未開発なところが残る東洋の小国に家族ともども移住するというのは、きわめて稀な事例だといえた。しかも、事業がうまくゆく保証などどこにもないし、頼るべき人物も望むべくもなかった。まさにゴーハムにとって、日本はフロンティア(新天地)そのものだったのだ。
そう考えると、ゴーハムという男は(家族を含め)、あきれるほどのフロンティア精神豊かな、大の好奇心豊かな好男子だったに違いない。
≪写真は、ゴーハムエンジニアリング社の社員とゴーハム氏(右端)≫
イベント・プロジューサーの櫛引弓人(くしびき・ゆみと)は、裸一貫の決意で別天地アメリカにわたり、興行師として成功しつつあった。
1893年にシカゴ万国博で日本庭園を造り、日本人女性によるお茶のサービスを展開し人気を博した。1896年にはニュージャージー州の浜辺の空き地を借りた。そこで、日本庭園を作り上げ、日本から運んできた丹頂鶴、京都の寺鐘、石灯篭、2万基におよぶ岐阜提灯などで彩りを添え、園内には日光の陽明門を模したつくりや銀閣寺を模した建物などで日本情緒豊かな空間を作り上げた。これが話題を集めた。
翌年には、映写機と映写技師を連れて日本に戻り、東京で初の映画を上映するなど、機知と天才的な大言壮語というか、ハッタリで興行師としての名を高めた。♪オッペケペー、オッペケぺッポーぺッポーポーの“オッペケペー節”で一世を風靡した川上音二郎(1864~1911年)と貞奴(1871~1946年)一座を海外公演に招へいしたのも櫛引の手腕だとされる。
興行師・櫛引弓人を引き合わせたのが、これまた一癖ある飛行機野郎だった。ゴーハムより6歳若い、当時20代のインディアナ州生まれの曲芸飛行士アート・スミス(1894~1926年:写真)である。夜間飛行を得意とするアクロバチックな飛行士。
飛行機に発煙筒を取り付け、夜空に文字を書くという演目のパイオニアでもある。アメリカでの成功をもとに、1916年と翌1917年にかけてアジア各地を興行している。東京の青山練兵場、富山の富山練兵場、名古屋港、浜松の和知山練兵場、三重県津市の久居浜練兵場、それに仙台でも曲芸飛行を見せている。助手を翼のうえに乗せ飛行するとか、宙返り、逆転、木の葉落としなど曲芸飛行で、多いときには10数万人の観客からおおいに喝采を浴びた。
ちなみに、青山練兵場での興行の入場料は、給与所得者の年収が333円の時代、特等5円、1等1円、2等20銭だった。
アメリカにおける航空エンジンの流れはほぼ定まったのである。ゴーハムの航空機エンジンへのアメリカでの夢は、ここで絶たれてしまった。
彼にとって生まれて初めての大きな挫折だったにちがいない。
この時すでにゴーハムは、幼馴染のヘーゼル・ホックと結婚し、経済的にも何自由ない生活を送っていた。小型エンジンを生産する数百名の従業員を抱える経営者だった。だが、エネルギー溢れるゴーハムには、そうした現状に満足していなかった。平穏無事な日常よりも、新しい目標に向かって自分なりの挑戦をしたかった。新しい地平を開きたかった。
そんなとき出くわしたのが、櫛引弓人(くしびき・ゆみと1859~1924年)という日本人だ。櫛引という姓は珍しい。調べてみると、太平洋側にある陸奥国の三戸郡櫛引村がルーツのようだ。
櫛引弓人は、青森五戸の名家生まれ。「もともと武家の家柄で、父清吉の祖先は「五戸の乱」で南部信道と戦い、敗れた五戸政美の副将・櫛引河内の守清長の弟、八郎平政信だという。母は立五一銀行を創設した野村家の出で、共に地元の名望家」(橋爪信也著「人生は博覧会・日本ライカイ屋列伝」)
幼少期はとにかくほら吹きという評判で、成人となり、興行師となった。興行師とは、いまでいうところのイベント業者である。別名「博覧会キング」と呼ばれた。いわば人々の好奇心をかき集め、いっきに燃え上がらせるビッグビジネス。儲かるときは莫大な富を得、逆に一つ失敗すれば逆に窮地に陥るゆえに、かなり怪しげなにおいのする生業だ。でも、好意的に言えば「国際的イベントプロジューサー」である。
裕福な家庭に育った櫛引は、若いころ慶應義塾の福沢諭吉の門下生となるが、放蕩で身を持ち崩し、相場の世界に足を踏み入れる。親から受け継いだ財産をみな注ぎ込み大失敗。
そんな日本人と、どちらかというと実直な性格のゴーハムさんは出会い、化学変化を起こしたのである!?
カルフォルニア州の地方都市に過ぎないオークランドでの数百名規模の工場経営の成功。いわば小さなアメリカンドリーム。
でも、この成功は、若いゴーハムのこころの充足感を、埋めることができなかった。これだけでは満足していなかったのだ。
次に取り組んだのが、航空機のエンジンである。飛行機の歴史は、よく知られるように1903年のライト兄弟の初飛行から始まる。ゴーハムは、とにかく持てる力を発揮して、最新の技術を投入して高性能な航空機エンジンを作り出すべく励んだ。そして出来上がったのが、V型6気筒150馬力のエンジン。このエンジンを搭載した飛行機に同乗して、彼はサンフランシスコのゴールデンブリッジのうえを試験飛行したという。1916年のことだ。
このエンジンは、アメリカ政府によっておこなわれた厳しいテストを通過し、高い評価を得た。だが、ゴーハムのエンジンを凌駕する航空機エンジン「リバティエンジン」がその後しばらくして完成したからだ。
結論を先走れば、アメリカにおけるゴーハムの航空機への野心は、この先絶たれることになる。その背景を駆け足で探ると‥‥。
時代はちょうど第1次世界大戦のさなかである。1903年のライト兄弟の飛行からわずか10年少ししかたっていないながらも、航空機が戦争の新しい道具として欠かせないものとして捉えられ始めた、そんな時代。
アメリカ政府は、対ドイツ戦線を決断した1か月後の1917年5月、航空機生産委員会の名のもとに、えりすぐりのエンジニア2人(パッカードのエンジニア/ジェシー・ヴィンセントとホールスコット・モーターカー所属のエルバート・ホール)をワシントンDCに招き、英国、フランス、ドイツなどの航空機を凌駕する航空機エンジンの設計を命じたのだ。高性能で量産化できるエンジン。そしてわずか2か月後に図面ができ、デトロイトにあるパッカードの自動車工場でV型8気筒の試作エンジンが組み上がり、さらに8月には、V型水冷12気筒エンジン(写真)が完成し試験され始めたのである。その秋には2万2500機が発注され、ビュイック、フォード、キャデラック、リンカーン、パッカードなどの自動車メーカーやエンジンメーカーに生産が割り振りされた。だが各工場の生産設備などの問題があり、一部はモジュールといってシリンダーならシリンダーだけの生産という具合に部品別生産がおこなわれ、2年間の間に2万基以上のエンジンが生み出されている。
1888年というから日本の元号でいえば明治21年、ゴーハムはサンフランシスコに生まれている。父親はアメリカ初の空気入りタイヤを開発したBFグッドリッチタイヤの代理店を営んでおり、経済的にも何自由なく育てられた。
時代は、ちょうどガソリンエンジン車が優位に立つ少し前の時代。
電気自動車そして蒸気機関自動車も次世代の乗り物として注目されていた。子供時代のゴーハムは、裕福な父親から蒸気エンジン車をプレゼントされている。とにかく子供の頃から機械ものが大好きだった。
10代の中頃ですでに手作りのエンジン付き木製クルマを作り、走らせていたという。そして青年となり、地元サンフランシスコの工科大学で電気学科を学んだ。電気を学んだのは、広くテクノロジーを知りたいという好奇心からだった。
大学を卒業後、ゴーハムは10代のころ木製エンジン車を作った自宅内の工場で、本格的なモノづくり工房として、エンジンの設計・製作した。それも自動車だけでなく、航空機用、船舶用、発電機用、農機具用などあらゆる分野での動力として小型エンジンを多角的に研究開発し始めた。小型エンジンは、芝刈り機、製粉機、噴霧器、ポンプ、耕運機、ボートなどの動力として使用用途がどんどん広がっていった。
そこで、こうした小型エンジンを使った事業をさらに本格化させるため、父親と組んで「ゴーハムエンジニアリング・カンパニー」を設立した。1911年、ゴーハムが23歳のときである。
この初のビジネスの挑戦は、順調にいきあっという間に従業員100名を超える企業へと成長した。オークランドにも工場を立ち上げ、消防ポンプ用のエンジンを製作したことで、一段と企業規模が大きくなり、スタッフの数も数百人となっていった。
振り返ってみれば、幕末から明治初期にかけての「お雇い外国人」の活躍は、自動車が地球上に登場する以前の19世紀の出来事である。
「自動車の世紀」ともいわれた20世紀にはいると、「お雇い外国人」はすでに遠い昔の物語となっていた。
ところが、日本の自動車産業の黎明期。いまや長い時間の経過でカスミがかかり見えづらくなっている。でも、よくよく調べてみると、まぎれもなく「お雇い外国人」がいるのである。初期の「お雇い外国人」から見ると「遅れてきたお雇い外国人」? 「20世紀のお雇い外国人」。その人こそが、この物語の主役ウイリアム・ゴーハムである。
ゴーハムは、日産の前身・戸畑鋳物時代に鮎川義介と出会い、日産の生産技術と品質管理など自動車メーカーとしての土台作りの司令塔になった。のちの日産の飛躍に大いに貢献するのだが、13歳で父に連れられて日本にやってきたころ(1901年)のゴーハムは、自分の運命を大きく揺さぶる未来の出来事など予想できなかった。このときはわずか3か月ほどの滞在だったが、日本の自然、神社仏閣、そして日本人の礼節に接して、すっかり日本びいきになったようだ。
振り返ってみれば、幕末から明治初期にかけての「お雇い外国人」の活躍は、自動車が地球上に登場する以前の19世紀の出来事である。
「自動車の世紀」ともいわれた20世紀にはいると、「お雇い外国人」はすでに遠い昔の物語となっていた。
ところが、日本の自動車産業の黎明期。いまや長い時間の経過でカスミがかかり見えづらくなっている。
でも、よくよく調べてみると、まぎれもなく「お雇い外国人」がいるのである。初期の「お雇い外国人」から見ると「遅れてきたお雇い外国人」? 「20世紀のお雇い外国人」、そんなタイトルが付きそうな高い技術を持った外国人。その人こそが、この物語の主役ウイリアム・ゴーハム(写真)である。
ゴーハムは、日産の前身・戸畑鋳物時代に鮎川義介(日産の創業者)と出会い、日産の生産技術と品質管理など自動車メーカーとしての土台作りの司令塔になった。のちの日産の飛躍に大いに貢献するのだが、13歳で父に連れられて日本にやってきたころ(1901年)のゴーハムは、自分の運命を大きく揺さぶる未来の出来事など予想できなかった。このときはわずか3か月ほどの滞在だったが、日本の自然、神社仏閣、そして日本人の礼節に接して、すっかり日本びいきになったようだ。日産をつくった外国人の一人の物語は、ここから始まるのである。
あまり知られていないが、日本は19世紀の中ごろから末、幕末から明治期にかけ優秀な人材を海外から導入した。
「お雇い外国人」と呼ばれた人たちである。短期間で欧米の技術や学問制度を導入したかったからだ。ときのリーダーたちは「殖産興業」「富国強兵」この2つの4文字熟語をスローガンに、欧米と肩を並べる国造りにまい進した。当時の日本人が持ち合わせていない知識・経験・技術を豊富に備えた外国人を、高い報酬で雇ったのである。
鉄道技術をもたらしたイギリスのエドモンド・モレル、灯台建設の英国人リチャード・ブラントン、「少年よ! 大志を抱け」のフレーズで名高い札幌農学校で教鞭をとったウイリアム・クラーク(写真)、岡倉天心とともに日本の美を世界に広めたアーネスト・フェロノサ、横須賀造兵廠や城ケ崎灯台を作ったフランスのレオンズ・ベェルニー、大森貝塚を発見したアメリカ人のエドワード・モース、それに怪談物語で日本を再発見した語学教育者ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)など、有名無名を含め2000名以上の「お雇い外国人」が日本にやってきて、それぞれの分野で活躍したのである。日本の近代化の推進力として名バイプレーヤーとして働いたのである。
こうした「お雇い外国人」は、破格の待遇で雇われたため、佐賀の乱や西南戦争などの内乱鎮圧で財政がひっ迫すると急速にしぼんでいった。配電盤としての彼らの役割は明治の中頃を過ぎると一応終わりを告げたということだ。
昭和20年5月の横浜空襲で横浜市の大半は焼失したが、日産の横浜工場は幸いほとんど被害を受けなかったようだ。
だが、終戦間際には、資材の不足や空襲、それに物流が途絶えるなどの影響で、生産性が激減し、昭和20年8月15日の敗戦の日までであるがトラック生産が1801台、ダットサンは2年半でわずか804台の生産だったという。
終戦後、鮎川は、戦争に協力したかどで逮捕され巣鴨プリズンに収容された。その間、監獄のなかで鮎川は敗戦後の日本の産業を立て直す基本を考えたという。そして、これからの日本復興には、中小企業の振興が欠かせないという結論にたっした。
鮎川は幸いなことに戦犯として起訴されることなく、1年半で出所した。だが、公職追放となり、表舞台には立つことができない。その後日産の相談役にはなったが、経営にとくに口出しすることがなかったようだ。1956年に日本中小企業政治連盟を設立したり、国会議員として活躍するも、次男の鮎川金次郎の運動員の選挙違反容疑に連座し、1959年に責任を取り議員辞職している。その後、病を得て、1967年2月に死去している。
その後日産は、倒産の危機に立ったり、朝鮮戦争の特需のおかげで息を吹き返したり、労働争議に巻き込まれたり、さまざまな事柄に巻き込まれながら、高度成長経済下で、トヨタとともに日本のモータリゼーションの牽引車の代表選手として、活躍した。【写真は、日産トラック戦後第1号車のオフライン 「日産自動車50年史」より】
(鮎川義介物語は、これでおしまいです。次回からは、『遅れてきたお雇い外国人ウイリアム・ゴーハム伝』をお届けします。そのなかに鮎川義介も出てきます。お楽しみに!)
« 前 | 次 »