みなさん!知ってますCAR?

2020年12 月 1日 (火曜日)

日産をつくった男・鮎川義介の光と闇!(第16回)

ハ47(新)  満州での「満業」の成功のカギは、日本の資金だけではなく、アメリカの企業の技術や資金を導入することだと見極め、それらを実行に移そうとした。軍は、あくまでも日本国内での自力を頼りにして、自動車産業や重工業を起こす、というのが方針だった。鮎川はこのことはある程度理解していたつもりだが、やはり読み違えが起きていた。日本の統制経済が進み、満州での鮎川の野望は崩れていった。そして、1941年12月の日米開戦で完全に夢は砕け散った。
  戦時下の日産では、すでに鮎川は社長の座を部下に譲り会長の座についている。
  戦時体制下では、トヨタもそうだが、日産の軍需工場となっている。1942年には船舶、航空機、鉄鋼、石炭、軽金属の5つの分野を重点産業に指定した。日産は、軍から自動車の生産の余力で、航空機エンジンをつくるとの命を受け、練習用の航空機エンジンである直列4気筒100馬力の「ハ47」(写真)の試作を翌年6月から、横浜工場で始めている。航空機エンジンの本格生産は、横浜工場でおこなわれていたが、増産を目指して白羽の矢が立ったのは、静岡の吉原工場だ。ここは、もともと人造絹糸、つまり洋服の糸をつくる工場なので、大幅な改造を擁した。敗戦の前年1944年末になると、横浜工場に疎開命令が出され、自動車部品の製造を含め、すべて吉原工場に移された。ちなみに、航空機エンジン「ハ47」は、日産の工場では、昭和19年3月から始め、月産50~150基だったが、最盛期の昭和20年5月には月産200台を超えている。

2020年11 月15日 (日曜日)

日産をつくった男・鮎川義介の光と闇!(第15回)

鮎川義介 (2)  自動車製造事業法による許可企業は、豊田自動織機の自動車部と日産自動車の2つだった。だが、いずれも名目こそ立派だが、中身、つまり自動車各部の材質的な強度とか耐久性はお粗末だったということだ。クオリティの高い自動車の量産は、モノづくりのすそ野(部品メーカー=サプライヤー)に広がりがないと成立しないが、それがまだ時期早々だった。
  ちなみにトヨタのトラックは、約1年間で650カ所ほどの改良がおこなわれた。改良してもなおGMやフォードのトラックに遠く及ばず、中古車でもいいからシボレーやフォードに乗りたいというのが当時のユーザーの本音だったという。
  1937年、昭和12年12月、鮎川義介は将来を見越して、大きく舵を切った。新しい地平を見つめていたのである。
  満州事変から6年もの年月が経っていた。このタイミングで、鮎川は「日本産業」を「満州重工業開発」略して「満業」という巨大企業に法人ごと満州にシフトしたのだ。満州の地でトラック生産をつくってほしいという軍の要望に応えるだけでなく、満州に自動車や航空機を大量生産する重工業およびその周辺産業を含め構築しようという大いなる野望を実行に移そうとしたのである。
  当時の鮎川は50歳代。時代をになう有望な実力者と目されていた。その証拠に、当時の満州国の軍・官・財界を牛耳る実力者「弐キ参スケ(にきさんすけ)」のひとり。「弐キ」とは関東軍参謀長の東条英機と国務院総務長官の星野直樹を指し、「参スケ」とは、総務庁次長の岸信介、満鉄総裁・松岡洋祐、それに鮎川義介を指していた。
  将来のビジネスを考えると閉塞感のある日本では限界を感じていたようだ。ただ、この計画は鮎川の独断専行したきらいがあった。

2020年11 月 1日 (日曜日)

日産をつくった男・鮎川義介の光と闇!(第14回)

手叩きで成形する板金、戦前のトヨタのクルマづくり  昭和11年に軍の指導の下で自動車製造事業法が制定された。
  国防の整備と国内産業の発展を狙いとするものだが、本当の狙いはフォードとGMなど外国の自動車メーカーを締め出すことにあった。ところがこれは先の元日本兵がしみじみ語るように「絵に描いた餅」だった。
  これを補強する証言をもとトヨタ自動車販売の元社長である加藤誠之(かとう・せいし:1907~1995年)氏からもより詳しく伝わる。
  「私はもともとGMにいたのですが、昭和10年に豊田自動織機が自動車をつくるというので、関わった。当時のGMとフォードは月産約1000台、半分がトラックで半分が乗用車だった。(トヨタの)私たちとしても政府の要望を受け、トラックを優先して作るわけです。ところが、フェンダーをつくるにしても、バンバン叩いて丸く作り出すという具合に、人の手を借りて丸くしたものです(写真)。ですから、そうたくさん作れない。最初のうちは1台つくるのに1週間は十分かかった。数台出来てから、そのうちの2台を(愛知の)刈谷から朝5時にスタートして東京まで運ぶ。ところが途中の峠を降りたところで、フロントのサイドアームがぽきんと折れてしまった。ところがうまいことにトラックの荷台にその部品が載っている。そこで道端で修理した。数時間かけて。それからまた走り今度は箱根の峠に指しかかったところで、今度はエンジンがオーバーヒートした。しばらく冷やし、少しずつ登っていく。ですから朝出発し、東京には次の日のお昼頃にやっと着いたんです。芝浦のガレージに入れ、翌日、内務省とか鉄道省、陸運省、海軍省の役人の人たちに来てもらい、内示会をやった。そこでまぁまぁこれなら使える、という判断をもらったと思います。しかし、東海道を走るだけで故障しているわけですから、先は押して知るべし、というわけです」
  ジャパニーズカーも、こんなトホホな時代があったということだ。つまりチャイニーズカーにたとえお粗末なところを見つけても、けして笑えないのである。

2020年10 月15日 (木曜日)

日産をつくった男・鮎川義介の光と闇!(第13回)

日産70型乗用車  この直列6気筒サイドバルブ3670㏄エンジンを載せた70型乗用車は、トラックのシャシーを使ってボディを架装したもの。
  全長4750㎜、全幅1720㎜、全高1750㎜、ホイールベース2794㎜、車両重量1410㎏の定員5名または7名だった。7名というのは後部に補助席が付いたのだ。木骨鋼板張りのボディで、標準型が4000円だった。銀座の地価が1坪1万円の時代である。公務員の初任給が75円の時代である。
  この時代の国産トラックの品質は、どうだったか?  一言でいえば、お粗末で、フォードやシボレーのトラックには遠く及ばなかったという。筆者は、10年ほど前、大阪の自動車部品商で若いころ大陸で兵卒としてトラックの整備をしていた人物にインタビューしたことがある。
  この人によれば、「国産トラックに割り当てられた兵士は、がっかりした表情を見せていた」という。アメリカ製のトラックにくらべると故障が多く、扱うのに苦心させられたからだ。エンジンは、オーバーヒートはするし、ベアリングの焼き付きや、サスペンションのスプリングの折損など致命的なトラブルが少なくなかったという。熱処理のノウハウ、部品の品質管理などがお粗末だったからだ。中国大陸の道路事情が悪かったこともあるが、軍があまりに急を要する開発をせかしたことが遠因である。対策をあれこれ講じたものの、トラブルは最後までなくならなかった。日本軍の戦闘力低下の原因となっていたわけだ。

2020年10 月 1日 (木曜日)

日産をつくった男・鮎川義介の光と闇!(第12回)

日産80型トラック  『日産をつくった男・鮎川義介の光と闇!』(第12回)
  そこで、部下である浅原源七や久保田篤次郎などをアメリカに派遣させ、提携先を探り出させた。
  ところが、これがうまくはかどらなかった。打開策は意外なところから、見いだされた。
  アメリカのガラスメーカーの社長が来日し、日本板硝子と業務提携したのだが、偶然にもこの社長がアメリカの自動車メーカーグラハム・ページ社の株主だったことから、提携話がトントン拍子に進んだ。グラハム・ページ社は、ジョセフ・グラハムを筆頭とする3人の兄弟が1921年設立した会社で、直列6気筒エンジンを載せた乗用車やトラックをつくっていたが、1929年にはじまる大恐慌で業績が悪化し、身売り先を探していたところだった。
  鮎川は、社長のジョセフ・グラハムと信頼関係を結び、生産設備や工作機械類を格安で手に入れた。それだけではなく、開発中のトラックを日本で生産したいとの意向を取り付け、技術者たちも受け入れたのである。どのくらいの格安かというと、スクラップ価格の約10%乗せとか、2年以内に下ろした機械については多少の色を付けて購入したという。購入した機械設備は、船便で横浜港に到着し、一緒に来た技術者は、数か月にわたり技術指導のため日本に滞在している。
  こうして1937年3月から製造し始め、誕生したのが、80型トラック。このエンジンを搭載した70型乗用車、さらにはトラックフレームにバスボディを乗せた90型バスである。
  80型トラックは、全長が4699㎜とロングボディの5512㎜があり、前幅は単輪が1905㎜、複輪タイプが2032㎜、ホイールベース2641㎜、ロングボディのホイールベース3251㎜、車両総重量5250㎏、最低地上高220㎜。エンジンは直列6気筒水冷サイドバルブ 排気量3670㏄、ボア×ストローク82.5×114.3㎜、圧縮比6.5、最大出力85馬力/3400rpm。このエンジンは、グラハム・ページ社設計のもので、のちの日産のエンジン技術の核の一つとして、戦後も改良され、トラックやパトロール(トヨタ・ランクルの競合車)に採用されている。ちなみに、クランクシャフトに7個のベアリングを組み込み、過剰と思える耐久性を高めているのは、ディーゼルエンジンとしても使える設計だった。このトラックは月産100台近くあったが、大多数は軍が買い上げたため、民間にはほとんど行き渡らなかった。

2020年9 月15日 (火曜日)

日産をつくった男・鮎川義介の光と闇!(第11回)

ダットサン・デモンストレーター  東京銀座にショールームをつくったり、柳瀬商会の敏腕営業マンをヘッドハンティングしたり、鮎川社長の日産コンツェルンの人脈や組織を使い、徐々に販売網を広げていった。
  宣伝戦略もユニークだった。銀座のショールームのあるビルからはアドバルーンが上がり、松竹歌劇の看板女優だった水ノ江滝子を宣伝ガールに起用し、「ダットサン・デモンストレーター」と称して、数百人の応募の中から女性4名を選び出し、各種のデモンストレーションを展開した。いわゆる一般家庭の婦人層を狙ったキャンペーンだ。
  “明治の人力車、大正の自転車、昭和のダットサン”あるいは“旗は日の丸、車はダットサン”という、子供でもわかりやすいキャッチコピーもつくられた。
  ダットサンは、車両価格が安い、日本の道路事情に適してコンパクトサイズ、それに燃費も悪くない、しかも無免許で運転ができる(当時は排気量750cc以下のクルマは無免許でよかった)、そんなメリットが広く知れ渡り、急速に需要が伸びた。昭和10年には3000台弱だったのが、翌年11年には6000台を超え、次の年12年には8000台を超えている。
  小型車ダットサンは、とりあえず成功したものの、当時の一番の顧客である日本陸軍が求めているのは、中型のトラックである。時代は、満州事変から太平洋戦争へと戦場が拡大していたころだ。国産車を優遇し、外国車を排斥する「自動車製造事業法」が成立したのは昭和11年、1936年だ。戦時色体制の統制経済の一つである。鮎川は、すべてゼロから作り出すのではなく、海外の技術をそのまま移植し、優秀な日本人のエンジニアの手で短期間に中型トラックなり、中型乗用車を完成させる。そんな構想を頭に描いていた。

2020年9 月 1日 (火曜日)

日産をつくった男・鮎川義介の光と闇!(第10回)

ダットサン初期型  ダットサンのエンジンは、水冷直列4気筒、排気量が495㏄ サイドバルブ方式。4サイクルエンジンは、サイドバルブ→OHV(オーバーヘッドバルブ)→OHC(オーバーヘッドカムシャフト)→DOHC(ダブルカムシャフト)と進化を遂げたことを考えると、サイドバルブ方式は一番古い4サイクルエンジンのバルブレイアウトといえる。バルブとは、もちろん吸入空気をエンジン内に導入したり排気をエンジンの外に排出する吸排気バルブのことである。たくさんの空気をエンジンに入れて、ガソリンと空気の混合気を爆発させ、排気を素早く外に出す、ということ工程をより効率よくおこなう歴史が、このバルブレイアウトの歴史と重なるのである。
  ところが、ダットサンの4気筒エンジンは、いまのエンジンのような排気対策も電子制御技術も何も持たないシンプルなエンジン。ピストンはアルミ合金、コンロッドはジュラルミン製でメタルを持たないユニークなものだった。そしてモノの本によると、各部品の工作精度がとても要求されるキャブレター(気化器)の生産にとても苦労したという。最高出力10馬力/3700rpmと現在から見るとひどく非力なスペックだが、当時としてはそれなりの性能レベルといわれた。ちなみに、アクセルペダルは中央にあり、ブレーキペダルがその右隣り、というレイアウトだった。ペダルの位置はまだ統一されていなかったのだ。
  ダットサンは、当初は屋根が付かないロードスタータイプが発売された。1930年秋に、試作車を大阪から東京まで途中回り道をしながら1万マイル走行させている。このとき、とくに大きなトラブルには陥らず無事目標距離を走破できたという。ダットサンは、よく知られるように快進社の橋本増治郎のダット号の流れを汲む小型車だが、そのダット号のユニバーサル・ジョイントやリアのアクスル、各種ギアの機能部品の一部は、ダットサンになっても同じ部品に引き継がれている。

2020年8 月15日 (土曜日)

日産をつくった男・鮎川義介の光と闇!(第9回)

昭和10年日産工場  鮎川の意を汲んだゴーハムは、大車輪でアメリカから工作機械を買い付け、優秀なエンジニアも招きいれた。そのなかには、鍛造技術者、プレス加工のエンジニアが含まれていた。
  工作機械は、約8割が中古だったが、計850台の工作機械が据えられ、2年後の1935年4月から、ダットサンの一貫生産がスタートした。エンジン工場、熱処理工場、鍛造冶金工場、材料倉庫、ボディ組み立て工場、それに事務所などの建物が建てられた。
  具体的には、当初1933年に生産台数202台だったのが、翌年1934年には1170台となり、さらに翌年の1935年4月には、シャシーからボディまでの一貫生産が完成する。70メートルにおよぶコンベアラインが設置され、日本で初めての流れ作業による自動車の量産体制が確立したのである。この年の年間生産台数は、大阪工場を含め2800台。翌年の1936年(昭和11年)には大阪工場での車両生産が横浜工場に移管され、6163台の生産になっている。新たに加わった大型車と合わせると、8353台にものぼった。
  日産の50年史によると、草創期の自動車製造は、欧米先進国の技術をいちから10までフルコピーしたといっても過言ではないと伝える。「戸畑鋳物が本格的に自動車生産を始めようとした昭和初期、米国ではすでにベルトコンベア・システムにより年産500万台体制が出来上がっていた。日産は当初から外人技術者を招き、その指導を受けた。工場運営の第1歩である使用機械の選定から始まり、生産技術、生産管理技術など全般に及んだ。それに大量生産の裏付けとなる作業時間の把握、標準時間の設定なども学んだ」という。

2020年8 月 1日 (土曜日)

日産をつくった男・鮎川義介の光と闇!(第8回)

ウイリアム・ゴーハム  ところが、満州事変がキッカケで景気が良くなり、とりわけ金価格が上昇したことから、日本鉱業の業績がいちぢるしく好転し、日本産業は飛躍の機会を得た。そして創立4年後の昭和7年に、日本産業は当初からの方針の持ち株の公開と、傘下企業範囲の拡大を図り、そのために短期間のうちに旧来の三井、三菱に匹敵する日産コンツェルンを形成するのである。日産自動車は、こうした巨大企業グループの支援の下に、日本最初の本挌的な自動車産業を目指すのである。
  「満目荒涼、地に一木一草の影をとどめなかった。折からの夕陽を浴びた富嶽(ふごく:富士山のこと)は、その雄大秀麗な全景をあらわし、この不毛な原野に、何人も企画しえなかった難事業が開始される」
  いま読むと肩ぐるしいが、これは昭和8年12月22日、日産横浜工場の地鎮祭を描いた社内報の記事である。表現は大時代で苔が生えかかっているが、当時の工場建設の前風景がよく伝わる。“見渡す限り、荒れ果てて寂しい感じで、地面に目をやると草木の1つも生えていない。遠くに富士山が夕日を浴びて美しく輝き、このなにもない原野に、これまでだれも考えだにしなかった自動車産業という未知のビジネスを始める”といった感じか。
  とにかく、日本でこれまでになかったマスプロダクションの自動車工場が自分たちの手でつくり上げ、世に自動車をどんどん送り出していく、そんな意気込みが感じられる。
  工場の建設自体、未知の世界で、難事業である。新工場に据え付ける工作機械類を買い付ける役目をしたのは、アメリカ人技師のウイリアム・ゴーハムだった。鮎川義介の人脈のひとりだったゴーハムは、8歳若い1888年生まれ。サンフランシスコでエンジン製造会社を営んでいたのだが、子供の頃父に連れられ、訪ねた日本が恋しく1914年、ゴーハム36歳のときだ(写真;桂木洋二著「日本人になったアメリカ技師」より)。鮎川の面倒見の良さもあったようだが、日本人の勤勉さと優秀さ、それに日本の風土に魅せられたようだ。

2020年7 月15日 (水曜日)

日産をつくった男・鮎川義介の光と闇!(第7回)

昭和8年ごろの日産の工場  1914年、第1次世界大戦がはじまるとアメリカ、ロシア、オーストリアなどから軍需品の注文が殺到し、戸畑鋳物は大いに受けに入るのである。鮎川儀介は、これを手掛かりに、さまざまな産業界に触角を伸ばしていく。鉱山業、水産業、化学工業、電波事業、保険業務、生命保険会社などなど、この中に自動車産業が入るのである。このときから日産は、複業企業、コングロマリットの様相を呈するのだ。
  昭和3年(1928年)ごろ、国内の自動車メーカーのみならずフォードとGMにも鋳物の自動車部品を供給し始めた。鮎川は、このころから、自動車産業が将来成長産業になると見通してチャンスをうかがっていた。
  自動車業界参入の機会は意外と早く来た。昭和6年6月に戸畑鋳物の定款を改定し、自動車製造を付け加え、その2か月後にはダット自動車製造の株式の大半を買収して、経営権を握った。ダット自動車は、もともと橋本増治郎(1875―1944年)が苦心の末作り上げた快進社をルーツとする日本初の自動車メーカーである。
  鮎川は、従来の日本の少量生産の自動車産業から脱皮する目標を掲げ、昭和8年2月プレスや鍛造用の機械設備や工作機械類200台ほどをアメリカから輸入し、当初ダット自動車製造から買収した大阪工場で、ダットサンとフォードとシボレーの部品生産にあてた。
  さらに、10月には横浜市神奈川区の埋め立て地に、大量生産方式の近代的な自動車工場を建設するための用地2万558坪を確保した。そして同年12月、日本産業600万円、戸畑鋳物400万円、資本金1000万円の自動車工場が完成するのである。自動車メーカー・日産の誕生である。
  昭和初期の金解禁の余波で不況下を潜り抜けた日本の経済の流れから、鮎川は自動車製造部門では年間2500万円もの赤字を5,6年は覚悟していた。ところが昭和6年の満州事変勃発頃から、徐々に好景気にシフトし、日産は予想外の順調な滑り出しをしたのである。
  日本産業は、鮎川義介が久原工業を改組して、昭和3年に資本金5000円で創立した持ち株会社。傘下には、日本鉱業、日立製作所、戸畑鋳物を擁したが、創立当初は確かに昭和恐慌の時期とぶつかり業績はいずれも振るわなかった。

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