スバル360のプロジェクトリーダーは、百瀬晋六(1919~1997年:写真)という男だった。昭和33年(1958年)3月3日にデビューしたスバル360は、「てんとう虫」という愛称で、1970年までののべ12年間にわたり、約39万2000台が生産された。ちなみに、日本の自動車の生産は1960年にはわずか16万500台だったのが、10年後の1970年には300万台を超えている。このなかでスバル360は、台数こそ際立ったものとはいえないが、庶民に夢を与えた(少し頑張ればクルマを持てるという!)。奇跡的ともいえるユニークなメカニズム。4人がゆったり乗れる居住性を持ち、しかも安い価格。悪路での乗り心地の良さなど、その後の本格的モータリゼーションが花開く序曲としてスバル360の存在は、小さくない。
しかも、そのクルマが、ひとりの強烈な個性の持ち主が司令塔になり、つくり上げていったことが大いに興味をそそる。
ひとの死は、そのひとのことを知る人が世の中からいなくなったときこそ本当に死んだといわれる。百瀬晋六が残した言葉は実はいまでもスバル車のモノづくりの現場にも生きている。いわく「越えられない壁はない。やればできる。できないということはやる気がないからだ」という言葉はいまだに百瀬を知る後輩の耳に残っているし、早朝から深夜まで、納得のいくまで仕事の手を休めることのなかった百瀬の姿は、いまも後輩たちが強く記憶している。「ミスターエンドレス」という、尊敬と親しみ。からかいの気持ちが含まれたニックネームを懐かしむひとも少なくない。「行動を起こす前に、考えて考え抜け」「先に絵を描け、感じのいい絵はいい品物になる」という百瀬語録にちりばめられた言葉は、いまもスバルのエンジニアの心に届いているはず。