百瀬は文献を求め、東京の大手書店や神田の古本街、国会図書館などをこまめに歩いた。なかでも、クルマづくりへの手ごたえを感じさせた文献は、銀座の丸善で手に入れた「オートモーティブ・シャシー・デザイン」というイギリスで出版された本だった。シャシー設計の基本がかかれていた。いっぽう、日比谷の図書館に併設されていたGHQのCIE(シビック・インフォメーション&エデュケーション)という図書館に行き着き、自動車の関する理論書が何冊かあることを発見した。当初は百瀬一人でその図書館に通ったが、そのうち部下を連れ、さらに複写しようという熱情に駆られ、カメラマンを雇い必要と思われたページを写真として収めていくる必要を感じた。
いまならデジカメやスマートフォンで気楽に取れるが、当時間違いのない写真を撮るにはプロカメラマンを雇うしかない。しかもフィルム代もバカにならないため、特別予算10万円を上司に申請し、許可を得ている。当時初任給が9000円の時代の10万円はほぼ給料1年間分といえる。海のものとも山のものともわからないクルマづくりの投資の第1歩であった。