スバルが、戦後の混乱期のまだ残るなかで初めて手がけた乗用車の試作車P-1は、とりあえず完成した。
開発期間が短かったわりには、たずさわったエンジニアたちは、事を成し遂げた達成感に浸ることができたものの、パフォーマンス自体は現在のクルマに比べるとお寒い限り。最高速が舗装路で108km/h、砂利道で100km/h。これは、運輸省が管轄する東村山のバンク付きテストコースでは外周1キロという、あまりに短いため測定できず伊勢崎と前橋を結ぶ公道での記録だった。公道で全開走行! となれば、いまなら新聞沙汰になるが、当時はなんとものどかな時代だった。(ちなみに、筆者も1970年代、雑誌の編集部員のころ村山テストコースで、ニューモデルのデータ取りをしている。本気でアクセルを踏み込むとコースから飛び出す危険があり、あまりの貧弱さに冷や汗をかいた記憶がある)
富士精密工業製のエンジンは合計11台つくられた。ところが、この富士精密工業がブリヂストンの資本傘下になり、その傘下にプリンス自動車工業があることから、ライバルメーカーのエンジンを載せるわけにはいかず、途中から大宮富士工業製の1.5リッター直列4気筒エンジンを載せることになる。
1950年代に入った日本は、銀行や商社、メーカーなどの実業界の再編成の動きが加速した。富士自動車もこうした混乱の渦に巻き込まれ、P-1を世に送り出す機会を逸することになる。P-1は、「スバル1500」と社長の北謙治により命名されたのだが、その北が急死したこともP-1の不運を決定付けた。けっきょく14台のP-1がナンバーを取得し、うち8台が各工場の社用車となり、残り6台が太田、伊勢崎、本庄などのタクシー会社で営業車として活躍した。
タクシーとなったP-1は、とくに大きなトラブルもなく10万キロ以上を走りきった。社用車となった4号車は走行40万キロをノントラブルで走りきっている。こうしてP-1は、トラジディ的色合いを帯びたクルマだった。でも百瀬たちには、内向きにはならなかった。世にその真価を問うことはかなわなかったが、百瀬をはじめとするこのクルマを手がけたエンジニアたちは、「P-1で自分たちは自動車屋になった」と自信を抱くことができたのだ。スバル360へと続く飛躍への秘めた闘志を燃やすことができたのである。