足回りの開発についての多くのドラマも生まれた。
当時の道路は、バスが走ったうしろを走るとホコリが舞い上がり、2~3分待たなければ前が見えず、とても走れたものではなかった。雨が降ると、ワダチに水がたまりところどころに小さな池のようになった。こうした現在の舗装路とは比べ物にならない国道(酷道とも言われた!)や県道などの幹線道路は凸凹道が当たり前で、快適な乗り心地が大きな課題だった。
ところが、大人4人が乗れるという命題を満足させるため、足回りが使えるスペースは小さい。しかもすでに話したとおり、ドライバーの足先が前輪の車軸まで延びている。足回り担当は、百瀬とは中島飛行機時代からの仲間である小口芳門が担当した。1914年(大正3年)生まれの小口は、旧制長野工業学校の機械電気科を卒業し、19歳で中島飛行機に入社。そこで、いきなり設計部に放り込まれ、のちに名機といわれた九七式艦上攻撃機の油圧式引き込み脚の開発、九七式の後継機「天山」や試作で終わった「深山」など重爆撃機の足回り開発を担当している。
K-10のサスペンションは、フロントにトレーディングアーム式、リアにはスイングアクスル方式でスプリングにはコイル形状ではなく、鉄の棒のねじりを利用したトーションバーとしている。トーションバーはリーフスプリングなどに比べても場所をとらず軽量化にもなる。ちなみに、戦時中戦車に使われてもいたので、百瀬も小口もそのことを当然知っていた。