GMは、日本への進出については、フォードに先を越されていた。
2年前の大正14年2月にフォードが、一足先に「日本フォード自動車」を資本金400万円で横浜の新子安に設立し、ノックダウン方式でモデルT(T型フォード)の生産のスタートを切っている。フォードがいち早く日本進出を決めたのは、関東大震災後の需要を経験したからだ。
当時の日本の自動車をめぐる状況は、どんな感じであったのだろうか?
明治44年にのちのダットサンの前身となる快進社自働車のDAT号(2気筒12馬力)が完成するが、性能的に未成熟。この自動車の動の文字が、働く、つまり自働車になっているところが、いかにもその時代の人々の心意気が反映していて面白い。しかもこのDAT号は、いまのようにマスプロダクションではなく、手作りに近いシロモノ。内山駒之助らがかかわったA型フォードをモデルにしたとされる「タクリー号」は17台生産されて、その後大正10年には白楊社で「オートモ号」という小型自動車が生産され、これは250台ほど造られているが、まだまだ量産には程遠かった。
それでも、大正7年に施行された「軍用自動車保護法」は、当時の企業家に来るべき自動車の時代を予感させるものだった。トラックの製造業者と購入したユーザー双方に補助金が出る法律。つまり日本のモータリゼーション前夜は、軍需用トラックが中心でスタートしたといえる。よく言われるように、アメリカがこの地球上に始めてモータリゼーションを現出した。ヘンリー・フォードがT型フォードを、フォードの工場ではたらく労働者みずから手に入る価格で生産するシステムを完成させたのだ。欧州では当時、クルマは華族をはじめとするお金に余裕のある人びとのためのチョー高級品だったのと好対照。日本の庶民がクルマを持てるようになったのは、終戦後15年以上の時間が必要だった。