日本陸軍の自動車連隊は、インパール作戦など戦争ドキュメント映像で知るのみだが、いまからみると想像を絶する光景が展開された。道なき山を越えたり、川を渡るときは、車両を分解して兵士が担ぐなどして移動する。松田さんも、車両分解の現場に参加している。あらかじめ、エンジン、ミッション、デフなどの主要部位が納まる井形形状の木製枠を持ち歩き、ばらした部品をこの枠に載せて、下に木製のコロをかませ、ごろごろ転がしたり、あるいは持ち上げたり・・・人海戦術で移動させたという。「フォードなら、ばらす時間は3~4時間。いすゞの6輪車はまる一日かかった」という。
100名の兵士がいたら100通りの戦争体験がある。
昭和15年に大同自動車工業(現SPK)に入社し昭和18年から終戦の年20年まで同じ自動車連隊に配属されていた上田長之輔さん(上田興業㈱社長・84歳:取材当時)は、いささか異なる体験をしている。上田さんは、松田さんとほぼ同じ北支から中支にかけて活動した輜重兵の自動車連隊にいた。満21歳のとき自動車運転免許を取得していたので、3ヶ月の訓練をへて1936年式のB型フォードをベースにした軍用トラックの運転手を命じられた。大阪の大正区でノックダウン生産されたシボレートラックも軍用として活躍していた。
輜重兵ゆえ、燃料、機材などの軍需物資を部隊から部隊に運ぶ役目であった。八路軍の急襲や敵の機銃攻撃を避けるため、もっぱら夜間に走行したという。
〔写真は、昭和18~19年ごろの北支派遣軍のころの上田さん(右)。背後にフォードB型トラック〕