念願の自動車の開発は、1954年(昭和29年)、つまり国産車トヨタ・クラウンが完成する前年。
当時東京の街中で見かけるコンパクトカーは、ノックダウン後に国産化となるオースチン1200、ヒルマン1400、ルノー750あたりで、日本車と輸入車の技術的な格差は、目を覆うほどの開きがあった。
とはいえ、この年に試作車の製作にこぎつけ、本格的バイクの販売も重なったこともあり、鈴木式織機という社名から「織機」の文字が消え、新たに「自動車工業」の文字が追加され、「鈴木自動車工業株式会社」となった。ここから、スズキは2輪と4輪の製造に邁進することになる。
思えば、「パワーフリー号」(空冷2サイクル・排気量36㏄)をはじめスズキの戦後の復興は、2輪車への積極的なチャレンジだった。安定成長を求める大半の経営陣や銀行筋の反対を押し切り1954年、スズキは平均年齢わずか27歳のエンジニア6名で4輪車の開発に乗り出した。大いなる挑戦だった。