当初は、こうした文化の違いで軋轢(あつれき)が生じたようだ。
でも、現地の社長の賛同と、鈴木社長はじめスタッフの地道な説明とときには「工場経営はスズキ主導でやることになっている。それができなければインドにおさらばして、日本に帰る」と詰め寄った。このことで真剣みが伝わり、徐々にリーダー格の人が作業服を着たり、現場のラインに降りていったりと・・スズキ流の経営が浸透し始めた。
こうして1983年12月には工場のオープンを迎え、ガンジー首相が工場まで駆け付け、スタートを切った。インド事業で苦労したのはほかにもあった。現地部品の調達である。当時、日本の自動車部品メーカー(サプライヤー)は「インドで自動車が作れるわけがない」として一社としてインドに進出する企業はなかった。
そこで、最初はフル・ノックダウンといってほとんどの部品を日本から運び込み、インドで組み立てる方式だった。丸1年少したって生産数が5万台ラインになったころ、ようやく日本のサプライヤーがインドに見学に来ることで、インドでも十分仕事ができると判断、徐々にサプライヤーも進出してきた。