知の巨人であり、偉大な哲学者である梅原猛氏が、先日亡くなった。三島由紀夫と同年の1925年生まれなので、93歳だった。
奈良の法隆寺は実は聖徳太子の怨霊を鎮めるお寺だ、と説いた『隠された十字架』(1972年)や飛鳥時代の歌人・柿本人麻呂は実は刑死した、という説を唱える『水底の歌―柿本人麻呂論』。こうした著書で、学会ばかりか好事家のあいだに波紋を広げた梅原猛は、思いっきり独創的な学者だった。
そんな学者と自動車とは何の関係もない!? と思いきや、実はその出自を調べると日本の自動車産業の勃興期で活躍した人物にぶち当たるのである。
父親の梅原半二(1903~1989年)である。
仙台にある東北帝国大学工学部機械工学部に在学中、地元の魚問屋の娘と恋に落ち25歳のとき結婚、そのとき授かったのが猛だった。ところが猛の母親は結核にかかり早世。猛はその後、半二の実家である愛知県の知多で育てられることになる。温暖な土地で、祖父と祖母の深い愛情ですくすくと育つが、感受性の豊かな猛は、父母のいない少年時代の経験がのちの研究に“絶妙な影”を落としたと思われる。
いっぽう半二は、青年期のこうした不意の不幸を振り払うようにエンジニアの道を究めていく。
トヨタ自動車の創業者・豊田喜一郎(1894~1952年)の知己を得て、34歳のときにトヨタの前身・豊田自動織機製作所自動車部の嘱託技師になり、熱交換器であるラジエーターの研究を始める。そののち、44歳のとき技術部長になり、52歳のときには技術担当重役として国産車の金字塔である初代クラウンの陣頭指揮を執る。その後、品質保証の統括などでデミング賞を受賞。そして65歳、1987年に豊田中央研究所所長に上り詰める。
いわば、いまや盤石とも見える“トヨタの土台を作り上げた一人”なのである。息子同様、独自の井戸を掘り当てた人物なのである。
(参考文献:梅原猛が編集した『平凡の中の非凡』梅原半二著、写真は梅原猛の死亡を伝える1月14日付け朝日新聞と著書のなかの写真のコラージュ)