真太郎がこのときアメリカから持ち帰ったのが、「水平対向2気筒のガソリンエンジン2基。12馬力と18馬力」だとされる。
真太郎の自転車販売は、「オートモビル商会」と名を変え、東京市内で稼働するクルマの修理などに携わった。明治42年末(1909年)の警視庁管轄登録自動車が全部で38台、うち8台が国産車(日本製車)なのである。この8台(実際には10台作ったとされるので、2台は地方で使われていたようだ)は、実は、オートモビル商会の技師である内山駒之助とその子弟が造り上げた「吉田式自動車」だ。これが国産自動車第1号である。
ボディは、顧客の一人である有栖川宮威人親王(ありすがわのみや・たけひとしんのう)のフランス車ダラック号の模倣である。エンジンは、真太郎がアメリカから持ち帰った水平対向2気筒だが、そのコピーを駒之助は寝食を忘れ無我夢中で1年ちょっとで完成したといわれる。そのうちの数台は、甲州街道を立川まで遠乗りに出かけているが、イタリアのフィアットやドイツのメルセデス、フランスのクレメントなどと伍して走りほとんどそん色はなかったとされる。
この「吉田式自動車」は、ガタクリガタクリと走るということから、いつしか「タクリー号」という異名が付き、その異名が自動車の歴史に残っている。このタクリー号は、輸入車との市場争いの中で、消えていき、吉田真太郎、内山駒之助も、それ以後は華々しい活躍することなく、歴史のかなたに消えていった。
●写真は、タクリー号に乗る有栖川宮(左から2人目)。