幾多の改善もあり、ハイゼットシリーズは、販売が好調で昭和39年4月には荷台のスペースに重点を置いたキャブオーバー型のハイゼットキャブを投入、翌年にはキャブバンも追加し、軽4輪初の4段トランスミッションも追加している。
さらに、かねてより開発を進めていた800㏄水冷4気筒OHVのFC型エンジンを載せたピックアップ4輪トラックを「ニューライン」の名称で、昭和38年1月リリースしている。このエンジンは、小型乗用車のコンパーノ(写真)にも載せている。
昭和30年代の中ごろになると、日本は高度成長経済期に入る。昭和35年の池田内閣の「所得倍増計画」が高らかに宣言され、30年代後半には、個人所得が伸び、消費ブームが沸き起こった。
日本が敗戦後初めて、国際舞台に返り咲くタイミングでもあった。言い換えれば、貿易の自由化の波が押し寄せつつある状況。自動車メーカーには、次のステップである乗用車づくりへのヒリヒリするような飛躍・挑戦への時代であった。
ダイハツが、イタリアのカーデザイナーにデザインを依頼したのは、こうした空気のなかでだった。
社内デザイナーはまだ育っておらず、やむなく海外のデザイナーの力を借りて、飛躍のきっかけを作ろうという心づもりだったようだ。ダイハツからフレーム付きのシャシーを送り、ボディデザインを依頼したのだ。
ミゼットの爆発的活況に恵まれるなか、ダイハツは軽4輪トラックの時代が早晩やってくる、という予想のもとに、軽4輪トラックの開発を昭和33年ごろから始めている。当時は、この分野の需要はせいぜい月数百台であった。
開発から2年後の昭和35年11月にピックアップタイプの軽4輪「ハイゼット」を世に送り出している。駆動方式はフロントエンジン・リアドライブのFRレイアウト。エンジンは、強制空冷2サイクル2気筒356㏄で、17PS、前進3段後進1段のフロアシフトタイプだった。
前輪には独立懸架式のサスペンションで、注目を集め販売開始から半年後の昭和36年5月には累計3000台を超えた。その後「ハイゼット・ライトバン」も発売し、乗用車的な要素を加味することで「ビジネスだけでなくレジャーに使えるクルマ」として好評を得ている。
この時代、ハイゼットのエンジンは、ミゼット同様2サイクル。取り扱いしやすく出力が大きく軽量ということで、当時としてはごくポピュラー。エンジンの潤滑には燃料のガソリン内に2サイクルオイルを混ぜる混合タイプ。ところが、当時のSS(ガソリンスタンド)には混合油を常備していないところもあり、ユーザーには不便。そこで、昭和37年に「ダイハツ・オイルマチック方式」という潤滑方式を採用した。これは、ガソリンとオイルを別々に給油し、自動的にこの2つを混合してエンジン内に送り込むというものだった。
ミゼット人気を支えたのは、クルマそのものの機動性、低価格、軽免許で乗れる手軽さの3つがあった。実はこれを後押ししたのが、TVコマーシャルだった。人気コメディアンの大村崑(1931年~)と佐々十郎(1930~1986年)によるユーモラスなCMが、昭和33年から全国のお茶の間に流れ、ダイハツ・ミゼットの名が瞬く間に全国に広まった。
昭和32年にデビューした軽3輪トラックのダイハツ・ミゼットの爆発的人気はあったものの、実はオート3輪そのものが、そのころすでにピークを過ぎ下降線をたどりつつあった。オート3輪の生産台数を4輪自動車が抜き去ったのが、昭和31年だったのだ。背景には、既存の4輪車メーカーが価格の安い1トンクラスのトラックを市場に投入し、さらに需要に応じてロングボディの1.75トン車や2トン車も出そろうなど、市場の要請にこたえていたからだ。
こうした「3輪から4輪へ」という時代の趨勢をキャッチして、ダイハツ開発陣は、昭和30年初頭から2トン積みの小型4輪トラックの設計に着手し始めている。こうして生まれたのが、小型4輪トラックの「ベスタ」である。全長4690㎜、全幅1690㎜、全高1980㎜。ホイールベース2600㎜。エンジンは水冷4サイクルOHV2気筒、1478㏄53PS/3600rpm。後輪にダブルタイヤを装着したトラックだ。
「ベスタ」がデビューしたのは東京タワーが完成した昭和33年のことである。ちなみに、翌年ミゼットにバーハンドルだけだったのが、丸ハンドルが追加されている。
ミゼットの開発は、昭和28年ごろから始まっていた。最初に発売したのが昭和33年1月デビューのバーハンドルのミゼットDKA型で、当初500台だったが、人気を呼び、その年の8月には月産800台となった。
翌年になると他社の追従が激しくなり、次々にマイナーチェンジをおこない、スターター付きのDK2型、積載量を当初300㎏から350㎏に増大したDS2型をデビューさせた。昭和34年3月には、対米向けのMPA型も開発した。これは丸ハンドル、全鋼板製のキャビン、電動式のスターターを備えていた。
ミゼットは、初期型のDK,DS系、後期型のMP,LMP系の2タイプに大別できる。一般に初期型は2サイクル単気筒 排気量249㏄、300㎏積み、オープンフレームの一人乗り。後期型はエンジン排気量305㏄、350㎏積みのフルキャビンの二人乗りモデルだ。
初期型のDK,DS系を「街のヘリコプター」と称し、狭い路地にも分け入る優れた機動性を持つクルマとしたのに対し、後期型のMO,LMP系は「横町からハイウエイまで」と、仕事だけでなく、ドライブも楽しめる、そんなアピールをしている。いまから見ると、当時の庶民の見果てぬ夢というか、貧しさのなかに背伸びしているようで、ほろ苦さや悲しさを覚える。
いよいよ、昭和の自動車史を飾ったミゼットの話題だ。
昭和33年に登場し約15年間のロングセラー、ダイハツ史上空前絶後のミゼットである。昭和を語るうえで、卓袱台、ブラウン管式のTVとともに欠かせない“昭和のアイコン”となっている愛すべきダイハツ・ミゼット。発売初期にはわずか月500台に過ぎなかった軽3輪ミゼットが、ピーク時には月産8500台をマークしたのか? この謎を解くには、当時の世相を観察しなければならない。それでも累計台数は30数万台と意外と少ない。
昭和20年代後半、オート3輪市場は、円熟期を迎えていた。ユーザーの要望と好みに合わせて、車種は多様化し、サイズは大型化。その結果価格が4輪自動車に近づき、オート3輪が持つ本来の魅力が薄れていった。いっぽう、オートバイがそのころ(つい先ごろ世界累計1億台を超えたホンダのカブ号のデビューは昭和27年である)。バイクはオート3輪の下のクラスの運搬手段として人気を博したのである。でも、バイクで運べる荷物の重さはせいぜい50~60㎏程度。
この結果、4輪自動車化するオート3輪と、運搬能力に限界のあるオートバイのあいだに潜在的な需要が生まれていたといえる。この間隙にジャストフィットしたのが、まさにダイハツ・ミゼットというわけだ。ミゼットとは英語のMIDGET、超小型の意味である。いわばニッチ商品だともいえた。
かくして大阪の発動機製造は、社業の進展により、従業員が昭和22年末の1900名から、25年末には臨時従業員を含めると2300名となった。昭和22年10月には、全従業員の月給制が採用された。当時の工員は、日給や週給制が常識だったのだ。社名も、発動機製造からダイハツ工業へと改められた。
昭和26年、3輪乗用車の「BEE(ミツバチの意味)」が発売された。
これは、オート3輪の駆動レイアウトとは全く異なり、リアにエンジンを載せ後輪を駆動するRR方式。全長4080㎜、全幅1480㎜、全高1440㎜、ホイールベース2400㎜、車重960㎏。エンジンが強制空冷4サイクル水平対向OHV2気筒804㏄18PS、3速のトランスミッション。定員4名。低床シャシーに木骨ボディ。アポロタイプの方向指示器。価格が55万円。
関西地方でタクシーとして活躍する目的だったが、リアの伸縮式ドライブシャフトのスプライン部がぜい弱で、発進時や悪路走行時に破損し走行不能になったという。このスプラインを太くすれば、解決する見込みもあったが、1年余りで、生産中止となった。(ちなみに、BEEは発売数がわずかだったため、数台しか現存していない)
このBEEのつまずきは小さくなかった。だが、3輪トラックの世界は、右肩上がりで、技術もどんどん向上していった。オート3輪の基本スタイルは、昭和20年代後半まで、バーハンドルに、オートバイのような座席にまたぐタイプで、ヘッドライトも1頭式、というものだった。それが30年代になると、ヘッドライトが2灯式になり、丸ハンドルが当たり前、エンジンも空冷式から水冷式で静粛性が劇的によくなった。
1トン積みのSN型とその大型SSN型がデビューしたのは、昭和27年である。
V型2気筒1000㏄の空冷エンジン、油圧ブレーキに、前輪支持の油圧式ダンパーを加え、さらにセルモーター(スターター)を付けることで始動性を格段に向上し、より扱いやすくしている。キックスタートはある意味コツがいるが、スターターを付けることで、誰にでも始動ができるようになり、ユーザー層を増やしたのである。また前面にウインドシールドを追加し、運転手保護を狙ったのもこのころだ。ごく初期のクルマの安全性向上のレベルはこの程度だった。
この当時の3輪自動車は様々な使い方をされていたので、エンジン、荷箱の種類、積載量、車体寸法などの組み合わせで、市場に受け入れやすいように豊富な車種を発売。こうした努力が実り、生産台数の年々増加した。4年前の昭和23年には前年の倍の3880台、翌24年には戦前の最高記録である5200台を抜いて、7200台となり、日本での3輪自動車生産の27%を占めた。26年には、発動機製造㈱からダイハツ工業㈱に改称したのである。
当時のオート3輪メーカーとしては、マツダの東洋工業が、ほぼ互角のシェアで、そのあとを「くろがね」の日本内燃機、ジャイアントの愛知企業、三井精機の「オリエント」、明和興業の「アキツ」、「みずしま」の三菱重工業などが連なった。
写真は、昭和25年登場の全長3.68mの大型車SSH型。空冷4サイクル2気筒1000エンジン。油圧ブレーキを採用している。
昭和20年8月15日、長かった戦争が終わった。
同年3月の大阪空襲では市の1/3が焼失したが、幸いにも発動機製造株式会社の被害はほとんどなかった。主要モノづくり工場である池田工場の被害もきわめて軽微だった。
オート三輪の生産は、昭和21年から再開し、翌22年には生産台数が1900台となった。復興の槌音ひびく都市部の道路を、小回りのきくオート3輪車が生活物資の輸送に大活躍した時代だった。都会の路地の奥の奥まで、あるいは田舎の未舗装のガタガタの、乾けば埃がたち、雨が降ればぬかるみとなる道なき道(いまから見ると!)を物資を積んでかけ回ったのである。
昭和22年の戦後最初の3輪はSE型。そんな単気筒670㏄と750ccの2本立て。いずれも500㎏積み。標準車SE型は車体寸法が3m、大型車のSSE型は3.57mだった。
同年12月、輸送力増強を目的に、排気量1000㏄のオート3輪が認可された。これに続き、1200㏄、1500㏄と拡大。25年には100㏄V型2気筒空冷4サイクルの750㎏積みのSH型をデビュー。その大型タイプのSSH型は全長3.68mだった。従来の機械式ブレーキのほかに、油圧式ブレーキも採用されクルマとしての機能も徐々に向上した。日本の戦後の飛躍的な経済復興は、昭和25年の朝鮮戦争による「特需」がきっかけとなり歴史の教科書には大文字で記されるが、意外とダイハツはじめとする3輪トラックが、このときの復興に大いに貢献していたのである。このことは小文字であっても太文字で記すべき事柄なのかもしれない。
写真は、昭和22年発売のSSE型500㎏積みで、全長が3.57mとスタンダードより57㎝長い大型車。エンジンは750㏄。
オート3輪は、とにかく日本の国情だけでなく、国民性にもフィットしたらしく、右肩上がりで需要が伸び、ダイハツ号は最盛期とされる昭和12年ごろには年間生産5000台を超えた。工場設備を増設し、販売会社が国内28社、海外5社、内外の特約店を含めると国内外で131店舗を数えている。国内におけるシェアは57%に上っている(昭和9年)。
技術陣は、次なる目標として「小型4輪自動車」の開発をもくろんでいた。
昭和12年、陸軍自動車学校の主催による「4輪駆動式自動車比較審査会」が開かれ、試作車を出品している。空冷2気筒、1200㏄強制通風型エンジンを載せた2人乗りで、最高速度70㎞/h以上、前輪独立懸架、後輪別駆動方式の4WDで急こう配や泥田を走行したという。同じころ、これとは別に「小型4輪トラック」を製造・販売している。全長2.8m、全幅1.2m、全高1.58m、空冷水平対向2気筒、732㏄サイドバルブエンジンで、トランスミッションは前進3段。車両重量790㎏。改良を加え、本格的に販売しようとしたものの、不幸にも日中戦争が起き、軍需生産が優勢となり、資材不足もあり、約200台の生産販売にとどまっている。
「本当の価値が理解できていない町工場に、クルマづくりを任せてはいられない!」
当時の発動機製造(現ダイハツ)の経営陣は、そんな思いに駆られたようだ。そこで、オート3輪車そのものを全部自社で作り、売り出そうということになった。エンジンメーカーから「自動車メーカー」に大きく舵を切った瞬間である。
市販第1号のオート3輪は、HB型ダイハツ号なのである。昭和6年3月のことだ。「ダイハツ」という名称、つまり“大阪にある発動機製造株式会社”を用いるようになったのは、これがスタートだった。
大正末から昭和初期にかけて発売されたオート3輪は、オートバイのホイールベースを長くして、後輪を2輪にし、荷箱を付けたシンプルな構造。駆動方式も、オートバイ同様にチェーンドライブだった。ところが、これだとカーブを曲がるとき後輪の内側と外側の回転差を吸収(内側がゆっくり、外側は速く回る必要がある)しきれず、操縦安定性や乗り心地が良くない。そればかりか、ローラーチェーンそのものの耐久性にも不安があった。外気にさらされているので使用過程で埃や泥が雨水にかぶり、チェーンが伸びたり、切れたりする。チェーンの張りを調整したり、スプロケットやチェーンの定期的な交換も必要となる。
(写真は、市販のHB型より1年前に製作されたHA型ダイハツ号)
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